○戯論遊戯○

無知蒙昧な人間が記す、ブログ。日々勉強。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
English Here
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

■堀辰雄の関東大震災 室生犀星『母』


室生犀星




 いまから考へると何が何やら一切夢のやうな氣がします。だいいち母があんなに慘たらしく死んだかどうかさへ私にはまだ信じられないのです。どこかへ用達しにでかけたまま歸つて來ないやうな氣がして、私はよく門の前へ出てみることがあるのです。母は小刻みにちよこちよこした早足のくせを持つてゐるのですが、どうかすると能く門の前にそんな足音をきくたびに何氣なく歸つて來たのだらうと思ふことがあるのです。しかし次ぎの瞬間にはそんな筈がないと諦めてしまひますが、とにかくそんな瞬間が一日に何度も不用意に私を考へさせることが多くて、だるい、物憂い氣もちがつづいてなりません。まだ私が二十やそこらの歳ですから、あなたと異つて一層母のことが思はれてならないのです。あなたのやうな年齡になれば先刻も言はれたやうに、母親といふ感じが餘程太くなつてゐるやうですが、私のやうな若い年配では母といふ感じが非常に繊細で、どうやらまだその傍を離れられないやうな氣がいたします。つづめて言へば母の生活からすつかり離れてゐなくて、何一つするにも母に話さなければならないやうな氣がしてゐるのですから、──假りに私の着物などもむしろ私の好みよりも母の好んだ見立てが多くて、私はそれをまるで母に着て見せるためにも存在してゐるやうな氣がすることがあります。いくらか派手好みな母はいつでも用達しのかへりにはお前によく似合ふがらがあつたとか言つて、こんどあれを見て來るといい、もし氣に入つたら買ふことにしようなどと言ふことがあるのですが、私はまだ母のさういふ吳服屋の飾り窓へ近づいたこともありません。なぜかと言ふと母の見立てはいつも私とは反對で、がらが優しすぎたり派手だつたりするのですから紺絣でたくさんな氣でゐる私の氣に入らう筈がないのです。が、それを無理に進めるといふことはありません、氣に入らないと申しますと、わたしには大へんお前に似合ふと思つてさう言つたんだけれど、肝腎のお前の氣に入らなくては仕方がないと言つて、それきりにしてしまふことが多いのです。
 妙な話ですが私の家は職人もたくさん使つてゐましたが、會計の方はすつかり母がしてゐたのでございます。職人への時貸しや問屋への心使ひなども何から何まで父は任せきりでした。だから父は職人を廻すだけの仕事でむしろ閑散な位置にあつたのです。それ故すこし込み入つた話があると父はすぐ母に相談するといふ風で、母の方ではそれに一々自分の考へを交へてゐたのです。ふしぎにそんな風で一家がまるく大した損もなく暮してゆけたのです。私の家の商業ですか?毛筆をつくる方なんです。もと日本橋の馬喰町にゐたんですが、都合で四五年前に本所へ越して來たのでございます。──大して繁盛したわけではありませんが、小ぢんまりと職人の方との呼吸も合つて皆が母を慕つてゐたやうな氣がします。もつとも父はああいふ好人物ですから母が問屋との懸引に出掛けたあとでも、やはり庭へ出て萬年靑(おもと)の葉を筆の穗で洗つてゐました。いつかも母が何かのまぎれに自分のうちで作る筆で萬年靑の葉を洗ふなんて、職人に見つかつてもよくないぢやありませんかと言つたが、父は其れもさうだなと言つてその時は止めましたが、あとから又毛筆をつかつて居りました。──夏の暑いときなど母が問屋へ勘定取りを濟してかへると肌脫ぎになつて、日本橋通りはまるで磧(かわら)のやうに暑かつたと言つて、金の勘定をするのでしたが、父はそんなときにをかしなことには、母の肌へ團扇(うちわ)をつかつて風を送つてはやつてゐました。そんなことがしよつちうあるので私は珍らしく思ひません。母は二十二のときに私がうまれたのですから、さうです、たしか今年は四十三くらゐでせう。若いときは自分でも瘦せてゐたと言つてゐましたが、このごろは妙に色が白くなつて肥つてゐました。からだなぞたうてい四十三の人と思へないくらゐつやつやしてゐるので、──どうかすると私などまともに見られない氣がしました。母などといふものは不思議な羞かしさがあつたり、一種の不愉快に似た氣もちなどが手傳つて夏など裸で涼むのを見ると、つい面をそむけるやうな氣になります。ときとするとひどく厭な氣もします。──
 いつかお宅へ參つたときがありましたね、あのときも私は一しよでは厭だと言つたのですけれど、是非一しよに行くと言つてやつて來たのでございます。よくよく考へてみますと母は私と一しよに歩いたりするのが樂しみなやうだつたとも思ひます。たとへば電車に乘つても用事もないのに私に話をかけたり、名前を呼んだりするのです。他の人が注意して居ればなほのことです。お宅へあがつたときにもお前のお世話になる人をお母さんがちやんと見て置いて上げる。さうすりやお母さんも安心してお前のことをおたのみできるからと言つて聞かなかつたのです。──かへりにあなたのことを最(も)つと年を取つた方だと思つたが、あんまり若いので驚いたと言つてゐました。母親はあのとほりの下町育ちですから山の手の奥さん連中と話をすることを好きません。だからあなたに玄關で會ふとすぐかへつたのでせう。そのさきにも奥さんにあはないで旦那さまに會ふ工風はないかなどと子供らしいことを言つたりしてゐました。きつと文學者などといふものの奥さんは窮屈で固苦しいものだと平常から考へてゐたものにちがひありません。
 私を引摺り廻すのはいいが、この前をかしな話があるのです。神田に製本屋があつて牛込の有名な本屋のものばかりをやつてゐましたが、あるとき母はそこへも菓子折を持つてわざわざ出掛けて、その牛込の本屋から息子の本が出るやうなことがあつたら是非骨を折つて周旋してくれと賴んだのださうです。ところがその製本屋も製本屋で萬事引受けたやうなことを言つて、何んにも知らない母を喜ばせたことがあとで私に知れました。私は笑ふこともできなくて、さういふところにも母の心がひそんでゐるかとおもふと、その子供らしい氣もちが何か有難い氣がしたのでございます。世の中には存外ばかばかしい事でその實は决してばかばかしくない誠實のこもつてゐる事があるものです。母の塲合は全くその後者でなければなりません。母は私が大學を卒(お)へたららくをするのだと言つて、そのときは結城のみじんな縞がらを着て花でも生けてくらすのだと言つてゐました。お前だちは何處か郊外に世帶を持ち、私はやはり下町からときどき行つてお前だちの暮しを見て上げませう。その時分になつたら嫁と二人でお母さんを大切にして吳れなければいけません。お母さんは何も食べたくはないが、お彼岸のおはぎくらゐはお前だちの家の緣側へ出て小さい庭を眺めながら食べたいものだと言つたりしました。下町にゐるものですから東京の年中行事を樂しんで送つたものでございます。そんな行事を何一つ缺かしたことがありません。
 も一つは母は私の學校へ行つてゐる間に何時でも二階へ上つて來て、みだれ箱の中や机の上の書きものを搜して、もし五六枚の詩の原稿が溜つてゐたりすると、きつと私がかへつてからあれを吳れないかと言ふのです。私は私で妙な癖があつて何時も詩の原稿をきちんと綴ぢ上げ、それに表紙をつけておくのです。詩の原稿といふものはあなたの傳記にもあつたやうに矢張り綴ぢて置かないと、いつの間にか失せてしまふものですから、私はいつも左うして假綴のまま机の上においておくのでしたが、母はそれを珍らしさうに見ては吳れないかと言ふのです。
「お母さんには何をかいてあるか分らないぢやありませんか、そんな分らないものを上げたつて仕樣がない、──。」
「いえ、あたしにだつて讀めばわかります。お前のゐないときに何時も讀んでゐるんだから、いつの間にかいくらか分るやうになつたんですよ、それをお寄越し、ただぢや氣の毒だから母さんがちやんと買つてあげよう。」
「あげるなら只あげたつていいんです。賣るなんてことはできません。」
 母はあなたの原稿などが本屋や雜誌社に賣れるんだから、誰も買手のないお前の原稿を買ふのは別にふしぎぢやないぢやありませんか、そりやお前が學校を卒へたら本屋でも雜誌社でも買つてくれるでせう、だがいまは誰も買手がない、──だから私がかはりに買つて上げるのだと最う一人ぎめにしてしまつて私の原稿を自分の手文庫へしまつてしまつたのです。そのときにも、
「わづかの間だつたが最うお前の書いたものが、この曳出しに一杯になつてしまひましたよ。」
 さう母が言つて何時の間にかいはゆる買ひ上げた原稿の束をつまみ上げて見せました。私はこんな子供らしい事を咎める氣にもならずに默つて微笑つてゐました。いつたいに私の母はそんな年ごろになつても更紗の古いのや、錦のボロや、古い甲斐絹などの小布れを珍らしがつて小さい張紙の箱に藏(しま)つておくほど子供らしいところがあつたのです。もちろんお弄(もちゃ)品はいふまでもありません。何んでも母には面白さうな品でさへあれば喜んでしまつて置くくせがあるのです。うちの茶の間の長火鉢の上に住吉人形が釣るされてゐるのも、いはば母の趣味からで左う言へば玄關さきの笹をめぐらした踏石や辻燈籠の類まで何一つ母の好きでなかつたものはありません。そして暇さへあれば植木屋を呼んであれをああしろ、かうしろと指圖しては閑暇なときは自分も一しよに庭へ出てゐました。──言ひ忘れましたがれいの詩の原稿は母が持つてゆくごとに机のノートの下に五圓紙幣が挾まれてゐました。そのことを决して口へ出しては言ひません。だから私はいつの間にかそれを默つてつかつてしまふのです。私が原稿生活をするかどうか分りませんが、するにしても私に最初に稿料を拂(はら)つてくれたものは本屋でも雜誌社でもないわけです。
 そんな母ですから私よりも父にむかつては却つて中々きびしいところがありました。いつか父が向島の料理屋からかへつてきて、うちでも一本飲んでからこんどは私をつれて行つてやらうと言ひ、なかなか美しいお雛さまのやうな女がゐると言ひました。父はいい氣嫌で左う私に言ふことによつて隔てなく微笑つてしまはうといふ氣でゐたらしいのです。が、母はそのときむつとした顏をして父にむかつて、
「わたしのゐる間はそんな事をあなたにしていただきたくありません。これが何を知つてゐるものですか、そんなものに戯談(じょうだん)を言ふつてことがよくないぢやありませんか。」
 さう言つて顏を染めました。父はすぐ氣づいたのか、きまり惡さうに私の顏をみると戯談だと言つて、それきり再(ま)たと言つたことがありません。母のあのくらゐ眞面目な顏と心から怒つたやうな顏とを見たことが、その後にだつてあまりありませんでした。父は若いころすこしくらゐ道樂をしたさうですが、近頃になつては料理屋へもあまり立ち寄らないで家で晩食をとるやうにしてゐましたが、あるひは母のしきたりがよかつたのかも知れません。どちらかと言へば父は人の好い方なので誘はれたらきつと出掛ける方だつたのです。──それに近ごろになつてから、母はときどき妙に寂しい顏をして、
「お前が切角おあしを取るやうになつてもお前からおあしを貰つては何だか濟まないやうな氣がするから、その時分に不自由のないやうに花を生けることを習はうと思つてゐるんです。そしてお花のお師匠さんにならうと思ふがどうかね。」
 が私は微笑つて取り合はないうちに、何時の間にか母がお花をならひにでかけるやうになつたことをあとで知りました。父の仕事の方でもかなり忙しいのにどう時間を都合してゆくものか、晩なんぞ座敷へ坐つて竹の筒をならべ、夏菊に鋏を加へてゐたりしました。それを一人で夢中でやつてゐるのを見ると、なぜか母をいつになくいとしげに感じることがあるのです。花を生けて終ふとやれやれ疲れたと言つてゐました。そのかはり床の間には赤い夏菊がいい恰好に生けられてゐました。私はそれを何氣なくなかなかよいと賞(ほ)めると、母はわらつてまだ本式には生けられないのだと寂しさうに自分も床の間に眼をやるのでした。──あるひはその時にもう母に初老がやつて來てゐたのかも知れません。何となく初冬の感じを感じさせる初老は、さう言へば近ごろすこし烈しくなつたやうな氣もいたします、──と左ういふより今から考へると何も彼もあんな不自然な死にようをする母を考へさせずに置きません、──。ああなるためにも種々な事が工合よくあとあとに頭に殘るやうにさせたのかも知れません。



 私どもは恰度(ちょうど)晝飯(ひるめし)を食べかからうとしたときに地震が來たのでございます。はじめの一秒間は例の東京によくある普通の地震だとしか思ひませんでしたが、次の二秒間には──何か知ら何時ものそれでないことが直覺されました。すこし荒いなと思つてゐるうちにどーんと上へぐいと押し上げられたやうな氣がして、これは大地震だと思つたのです。母はすぐ
「大事なものは皆わたしが持つて出るから、みんな外へ出なさい、──お前何をしてゐるんです。」
 さう叫ぶと母は奥の間の簞笥の小曳出しから銀行の通ひと現金とを持ち出し、父が着物類を取り出さうとしてゐるのを見ると、
「着物はあとでも關(かま)ひません。」
 さう言つて通りへ皆が飛び出しました。私だちはまるで暫らくは立つてゐられなかつたほどです。「地面に手をついてゐらつしやい」母は父にさう言つたので、私もそのとほりにしました。が第二番目の地震が來たときは母は落着いてしまつて、鎭まるのを待つて兎に角みんな着換へをして何時でも遁げられるやうにしようと言ひました。父も私も平常(ふだん)とは少しよい着物をと言つても暑い時分のことだし、とにかく新しい浴衣を着てから道具類を少しづつ纏めました。そのときは旣(も)う吉原一面が、火になつてゐたのです。が誰言ふとなく深川と本所にも火が出たといふものが居ました。外へ出て見ると私は喫驚(びっく)りしてしまつたのです。火の手があちこちに起つてゐるのです。對岸はと見ると京橋あたりらしい一面の煙と、そのわきに日本橋がさかんに燒けてゐる、──。どうやら下谷あたりにも新しく燒けはじめたらしく白い煙が風の間に吹き流されてゐました。
「こりや全(まる)で東京ぢゆうの火の手ぢやないか?」
 私は家へはいると母にその事を告げましたが、母は案外落着いて、こちらは何しろ隅田川を控へてゐるんだから、橋さへ燒けなかつたら大丈夫だと言ひました。私はそのとき何氣なくその橋のことがぼんやりと氣にかかりましたが……
「どんな火だつて隅田川は越せるものぢやない、──。」
 父もさう言つてゐましたが、とにかく母は臺所(だいどころ)から御飯を持つてくると、お腹をこさへて置かないと働けないからと言つて食べかけの晝飯をたべ、そして一同が家の外へ避難しようとすると表の方で先刻からとは別な生々(いきいき)した騒がしさがしました。全く攪亂(こうらん)の中にも新鮮と疲勞とがあるものです。私だちが耳をかたむけたときに外の騒がしさが全く胸を悸然(ぎょっ)とさせました。そのとき母はすぐ裏戸を開けると
「火が廻つた、──。」
 さう言つて皆に逃げなければ駄目だと言ひました。まさかと思つた水戸さまの屋敷の前まで火がやつて來たのです。そとへ出ると母はかう言つて蒼白い變にゆがんだ顏つきをして、
「みんな吾妻橋の上で會ふんですよ、もう道具なんぞはどうでもいいから。」
 さう言ふと表に入り亂れた群衆のなかへ紛れ込みました。その瞬間に私はすぐ父の方を見ましたが、もうその姿が見えません。そして火は向島の土手の兩端からと更らに小梅町の奥からと私を挾み打ちにしました。私は土手下へ出るときに火さきで脛さきをぺろりと舐められました。聲を限りに母や父の名を呼んで見ましたが、蒸し返る群衆の叫びごゑや水の中へ皆が飛び込む音にまぎれて少しも聞えない、──そのうち私はもう仕方がないので川の中へ飛び込みました。そのときは土手上の人がばたばた水の中へ押されては落ち込んだりしてゐました。飛び込んだ人の上に又飛び込んだりするので下敷になつて、それきりになつた人もゐるらしいのです。
 私はあまり泳ぎを知りません。しかし平常は二三町なら泳げるのですが水の中では一向泳げません。何だか後戻りするやうな氣がしたくらゐです。その筈です對岸の淺草一帶に何時の間に火が移つたものか、公園を中心にしてまるで燠のやうに火が蒸れ上つてゐて、それを見ただけでも泳ぐ手が力なく凍えたやうになつて了ふのです。それに川の三分の一くらゐまで行つたときに、私は生れて初めて龍卷きといふものがあんなものかと思つたくらゐ吃驚りしました。それは火風に煽られた旋風が川のまん中に渦を卷いて、川水が二尺くらゐ盛上つてぐるぐる眩暈するほど舞つてゐるのです。幅は二間くらゐあつたでせう、まん中に白い泡がむら立つてそれが波紋を起してまるで砥ぎ澄したやうに美しく盛り上つて獨樂(こま)のやうに廻つてゐるのです、──そこまで泳いで行つた人はまるできりきり舞ひをやつて、卷き込まれて了つたのです。その卷き込まれた人が上つてくるときは三間から五間くらゐ下流へぽつかりと死體になつて浮きあがつて行きました。九月一日は旋風でしたがあんなに酷い龍卷きがあつたのは火風のせいに違ひありません。私はその渦卷の輪廓にいきなり肩さきを斬られたやうな氣がしたとき、思ひ切つてわきへ泳ぎ刎ねたのです。まだほんの輪廓にふれたくらゐだつたからでせうが、今から考へると全くあの渦の中へ呑み込まれたら、こんなにしては生きてゐられなかつたでせう。しかも皆はその渦卷きのそばへ行くまでそれを知らなかつたのです。何んだか大變水嵩があると思ひながらも何かきつと橋の杭のやうなものでもあるのだらう位ゐに考へてゐるうちに、その渦卷の輪廓の第一線に肩さきを奪られたらそれきり足をすくはれて了つて、からだが三四度ばかり舞つてぐいぐい底の方へ引き摺り込まれてしまふのです。ですから私は目前にそこへ陷込む人を見ましたが、聲を出すことさへ厭になつて却つて面白いものでも見るやうに茫乎(ぼんやり)と眺めてゐたほどです。──あなたは先刻私がわづか一晩のあひだにすつかり顏つきが大人になつたと言はれましたが、あるひはさうかも知れないと思ひます。そんな光景を見せられたら全く大人じみた顏くらゐにならなければ餘程の白痴だと思ひます。
 それから最う一つ私は恐ろしいものを見ました。ちやうど蒸汽船が通りかかつたので私は叫んで見ましたが、とても助けてくれさうもありません。その筈です川一杯にながれた人間がみんな叫んでゐるのですもの、しまひに蒸汽船の方で逃足を食つてどんどん走らうとするのです。私はそのとき今あの蒸汽船に追ひ付かれなかつたらそれきりで溺れ死になつてしまふだらう、これはどんなにしてもあれに追ひつかなければならないと思つて、一生懸命になつて蒸汽船目がけて泳ぎつきました。そのときの嬉しさはまるで夢中でした。あとでよくあんなに泳げたものだと思つたくらゐです。──そして蒸汽船に乘つてゐましても、兩側の火が飛び交うて熱くて仕樣がありません。これは船まで燒けて了ふのだと思つたくらゐです。しまひに船頭はもう船には人を乘せたらこちらがお了ひだと言つて、もう蒸汽船に一間と近づいた人でも救ふことをしなかつたのです。私もそれは仕方のないことだと思ひました。──だいぶ下流へ行つたころに橋の上に火風が下りたと見てゐると、まるで水でも打ちかけたやうにぺろぺろ橋が燒けはじめました。あんなに早い火脚を見たことがありません、今放(つ)いたかと思ふと旣(も)う向側の橋の最後の板の上にまで火さきが走つてゐたのです。なるほど火風に蒸されてゐたために譯なく火が乘り移つたに違ひありませんが、あんなに鐵材(てつざい)の多い橋にあんなに火が早く移るなんて、あれを眼に見たものでなければその恐ろしさを知ることができません。──蒸汽船は火の海のなかを走つてゐたのです。船屋臺(ふなやたい)なぞぷすぷす煙つてゐました。
 しかし母のことを考へたのは、やつと自分が助かつてからでした。吾妻橋はとつくに燒け落ちてゐましたから、あそこで待ち合すことなぞ夢にもだめなことでした。では母は一體どうしたらうか?さう思ふと私は川の中に鮒のやうにぷくぷく浮いてゐた人間の死體を思ひ浮べたのでございます。私は靑い川水を覗き込み二三人の死體をもしらべましたが、やはり母は無事だとも死んだとも思ふことができませんでした。どつちを决定して考へるにもあまりにまざまざと現狀を見てゐた私には、わかり過ぎてゐることをもハツキリ見分けることが出來なかつたのです。──そして父は?と思つたときにもやはり同樣にぼんやりと考へてゐるだけでした。生死を自分で决定する考へはどうしても起らなかつたのでございます。



 私は池袋の知人、──母方の親戚へ身をよせてゐましたが、二日の午後、父がぼんやりと歸つて來ました。汚ない浴衣を一枚引つかけたきり顏は一晩のうちにすつかり瘦せ落ち、頭髪は全く眞白になつてゐました。こんなに人間といふものはたつた一と晩のうちに變貌するものだらうか、──私は父の顏をみるなり何故か惡いことをしたあとのやうな氣がしました。それは私が母と一しよにゐなかつたために、まるで母を見殺ろしにしたやうな氣もちを私は私自身のなかに感じたのでございます。これと同じい氣もちがすぐさま父に對つて感じる私でもありました。しかし父はすぐ私のかほを見ると、ほつとしたやうな顏をして、
「お母さんを知らなかつたか?」
と言つて自分自身も知らないことを暗示しました。
「ええ、吾妻橋へは行けなかつたのです。仕方なく川へ飛び込んで蒸汽船に助けられたんです。」
「さうか、そりやよかつたが……。」
 父はがつかりした顏つきだつたが、その表情にはすつかり諦らめてゐるやうなところもあり、さんざ昨夜から考へ通して疲れたあまり母のことを言ひたくないといふ氣はひも見せました。
「とにかく川へ這入つたらしく思はれるんだ。かうしてゐるより一つ搜しに出掛けようではないか、土手を中心にして行けば分るだらう、──。」
 父と私とは提灯と食物とを用意して、その日から土手の上の死骸を一つ一つしらべて行きました。ところが着物など着てゐる死骸がすくないために、いちいち死體の顏を上へ向けて見なければならなかつたのです。着物をきてゐる人はその縞がらで分りますが、さうでないものは顏とかからだつきとかを見なければならなかつたのです。私はその臭氣よりも一つ一つの顏をみるのが厭でした。が、そんなことを言つてゐられる時ではありませんから父のあとについては見てあるきました。たいがい溺死者が多かつたせいか、顏などもそのままに靜かな顏をしてゐる娘さんや、下町のおかみさんらしいのもあり、なかには睫毛でくろぐろした眼を美しく閉ぢてゐるのなどありました。
 そのとき私はふと母がへいぜいから指輪を好いてゐたことを思ひ出したのでございます。──お話ししたやうに萬事男のなかを切り廻してゐた母親は派手好みの、わけても變化(かわ)つた指輪が非常にすきでした。甲蟲のやうな色をしたあれは何といふ石かも知れませんが、それを横濱の印度人の開いてゐる何とか言ふ店から買つて來たり、銀座では一と頻り流行つた蛇のかたちをした銀の指輪を買つたり、眞珠やプラチナなども持つてゐました。が、どういふものかダイヤはひどく嫌つて决つてはめなかつたのです。──商人である父はダイヤは財產も同じだから他の下らないものを買つたりするよりダイヤを一つだけはめたらどうだと言ひましたが、母はあれは分限者か俄大盡(にわかだいじん)のはめるもので私などのがらではない、第一あれは嫌ひだと言つてたうとう一生──今では全く一生箝(は)めなかつたのでございます。
 そんな譯ですから私はなるべく死體の右の手を眺めて歩いたのです。私の覺えのある、れいの甲蟲色をした指輪をその日はめてゐたやうですから大槪見間違ふことはないだらうと思つたのです、──が、ふしぎにも何の死體にも指輪が極く稀れにしかはめられてゐなくて、はめられた分は指さきにまで水氣が上つてゐるせいか、指輪も埋るくらゐに膨れてゐたのです。それに死人の指さきに指輪のはめられてゐるのを見るのといふものは、生前死後の生活のつながりを差し覗いて見たやうな氣がして、何とも言はれず寂しい氣がしました。
 そのうち日暮れになつたので提灯をつけて何百といふ死體をいちいち覗いて歩きましたが、私だちと同樣に灯をつけた群衆があちこちに死人の顏をさがして歩いてるのを見ると、何だか戰爭のあとのやうな氣がしてなりませんでした。しかもまだ火の手があちこちに起つて、くすぶつてゐる焦土から絕えず煙がながれてゐました。そして夜の九時すぎに土手下の窪みにやつと母の姿を見つけたのでございます。
 母はちやんと甲蟲色の指輪ははめてゐましたが、持つて出た筈の現金や通帳は持つてゐませんでした。私は襯衣(シャツ)一枚になつてゐる母の姿を見ただけで、すぐに泪も出なければ悲しい氣が起りませんでした。その筈ですあたりに算を亂した死體はどれもこれも裸同樣だし、さういふ慘たらしい姿を一日打通しで見つづけた私には、すぐには悲しくなれませんでした。
「やつぱり川へ飛び込んだものらしい、──傷一つしてゐないぢやないか、だが、この髪は焦げてゐる。」
 父はさう言つて髪の毛に手の平を觸れましたが、どの死體も同じいやうに髪の毛は亂れてゐて、焦げた痕が殘つてゐました。私は父と母との情愛といふものを是まで一度だつて考へたことはなかつたが、何故か父が母の髪の毛に觸つたときに非常に刺戟的な悲哀をかんじました。父の顏は泣くやうな泣かないやうな變な顏をしてゐたのでございます、──大方私が蒸汽船に辿りついた時分に、母は私や父の名を呼びながら、火に燒かれて苦しまぎれに入水したものだらうと思はれるのです。その表情には安らかさがなく、苦しんだあとがありありと殘つてゐたからです。私は私自身がかうして生き殘つたことを此の不幸な母のために何故か惡いことをしたやうに思はれてならない氣がしたのでございます。あるひは父だつて同樣な考へをもつてゐたかも知れません。私だちは死體を荷車に乘せて父が曳き私があと押しをして行きました。あんなに派手好みな母が荷車の上で靜かに仰向きになり、顏には手拭ひをあてられたまま、焦土のわかりにくい道を市川の知合ひまで搬んで行つたのでございます。途々私は母の聲音を何度も耳にしたことは言ふまでもありません。だが、母はもう冷たくなつて車の上にゐるではないか?──私はさう思つても矢張り母のこゑが轣然(れきぜん)とした轍の音にまぎれながら起つてくるのでした。
「幸雄。」
 私はきふに冷たくなつて伸び上つて、母のすがたを見ました。
「うしろへ摺り落ちさうぢやないか?うしろが非常に重くなつて來た、──。」
 父はさういふと些(ちょ)つと車を止めて、母の姿を前へ引くやうにした。私ははじめて父が私を呼んだことに氣がついて、父に手傳つて母を上の方へ押すやうにしました。──そのとき私どもと同じい死體を尋ねあてた人々が、あるひは擔(かつ)いだり車に乘せたりして續いて背後に見えました。私はどれだけの人死があつたかを知らないがその瞬間には生き殘つた私自身をすら不思議に思つたくらゐでした。



 私はまだ母が死んだといふことが信じられずに居ります。庭や樹の間をみてゐると植木屋を對手に下草や庭木の手入れをしてゐる姿がまだ眼を去らないのでございます。──
「お前とお母さんの名前ばかりを叫んで走つたのだ。どつちかが生きてゐてくれれば必然(きっと)答へてくれるだらうとあんな混雜の中に呼んで歩いてゐたが、たうてい知れるわけのものではない、──唯ふしぎなのは吾妻橋の方にもちろん氣のせいだらうがお母さんの聲がした。あれもお前や私が死んだものと思つてゐたらしい、──きつと左う思つて死んでしまつたのだらう。」
 とにかく父は火に趁(お)はれると、土手下の石垣へ下りて石垣にぴつたりと食つついて、兩方の袂をちぎつてそれで頰かむりをして、絕えず水の中へ頭をつき込んでは一晩ぢう首だけを水面に出してゐた。いま水につかつたと思ふと三分と經たないうちに頰かむりをした布地が乾いた。私のよこにも前にも澤山の人がみんな鵜のやうに水へ這入つたり出たりしてゐたのだ。そのうちに何時の間にかだんだん居なくなつたことに氣がつくと死體がよくからだに突き當つた。そのたびによろよろして石垣にかじりついた手を離さうとしたくらゐだ。私は人間の足があんなに輕く水の上に浮くものだらうかと思つたくらゐ、ぽつかり浮く手足をふしぎに眺めた。しかしどういふものかお前だけは川の中を泳いで向岸については居やしないかと思つた。お前はすこし泳げる方だから何故かお前は大丈夫だと思つた。だからもう夜明けちかくなつてから私はあれの名前ばかり呼んでゐたのだ。明るい川の水が、ぎらぎら火にあぶらがついたやうに燃えてゐるばかりだつた。そのなかにも平常ききなれたあれの聲が雜つてゐさうで何度も耳を澄したりした。
「今でも川の流れ工合が太腿をすうすうと通つてゆくやうな氣がする。水の中では少しも寒くなかつたが、上つてからは齒の根も合はないほど寒かつた。」
 父はかういふと、疲れた顏をして最う一度私の顏をながめてから、いくらか母を賞めるやうな口調で戯談めいて言ひました。
「これからお前の書いたものを買つてくれる人がないぢやないか?あれは何時でもお前の書いたものでさへあれば、私にも見せないで蒐めてゐた。自分で讀めないのは私に見せたつけが……。」
 私はそんな風に物を言はれると父を正視できないので、そつぽを向いて、そして初めて父とか母とかいふものは世に類ひ稀れなその子供にとつて悲しいひと達ちだと思つたのです。私のあんな詰らないものが父や母をこんなにまで面白がらせたのだらうかと思ふと、戯れに書いた私自身に罪があるやうな氣がして、一生詩なんかを書くまいと思ひ、文字をつづることが急に厭な氣がしたのでございます。もちろん私はあなたにもこれからは詩の原稿を見て貰ふ機會がなくなるかも知れません、──そんな氣を起す私自身が若いせいもありませうが、それよりも私はやはり古い日本人らしい、そして下町育ちの母親の理想であつた文學士になつて大學を卒へることばかりを今考へてゐるのです。こんな古くさい考へがどうして新しがりの私に起つたか?今どきの靑年らしくもない考へをなぜ私が抱くやうになつたかは說明できません。──ただ說明できるのは、母のあんなにまでデリケエトな心持にそつと私自身の手をふれたいだけなんです。そして母の理想を微笑んで爲し遂げる私の心持ちだけが人人の前に平氣でしかもわざとらしくなく釋(と)けるのでございます。ちやうど父が向島の土手の上で母の髪にそつと手をふれたと同じい工合に私は私の母の心に手をふれたいと思ふたのでございます。それは若い私のすることを笑ふ人もありませうがそれはそれとして、私は私の考へを押しすすめてゆく考へなんでございます。父は水につかつてゐたのですつかり腹を惡くしてゐましたが此頃ではだいぶよくなつたやうでございます。唯あまり永い間燒け落ちた人家の火の手を眺めてゐたせいか、すこし鳥眼のやうに晩になると視力が弱つてくると左う言つて居りますが、大方の人がみな鳥眼になつたやうに或ひはさうなるのではないかと思つたのですが、二三日前から餘程よくなつたやうです。──唯、晩方など戸惑ひするやうに襖などを開けたりすることがありますが、しかし大したことはなからうと思ひます。ふしぎなのは父はよくこんなことを言ひ言ひしました。
「お前にはへんに思はれるだらうが、日が經つに從つてあれが家のなかの、どこかに居るやうな氣がしてならない、──そんな筈はないと思つても氣のせいといふものは恐ろしいもので、奥の間に私が居ればあれは茶の間にゐるやうな氣がするし、茶の間に私が居ればあれは勝手口に働いてゐるやうな氣がする、──そればかりではない、どうかすると陶物(せともの)を洗ふ水の音さへ聞えてくるから妙だ。──お前にはそんな氣がしないかね。」
「いえ、──しかしまだどこかに居られるやうな氣はすることがありますが……。」
 私はかう答へると永い間父が一しよに居たせいで、さまざまな幻覺を感じるのだらうと思ひました。心理學の例證や索引によると親子友人の關係よりも、夫婦間のどつちかが早世したときに感じる幻覺が一番多いさうです。なかんづく妻にさきに亡くなられたあとはその夫が一等ひどい錯覺をかんじることも、どうやら此頃では本統らしく思ふやうになりました。ふしぎに父は夜よりも晝の方がよけいに母を感じることが出來ると言つてゐました。そのうちで一番ひどくやられるのは足音ださうです。さういふせいばかりではないでせうが、父は物音にたいして非常に敏感になりました。私などが小路を廻るとすぐ私だといふことを感じるやうになつてゐるらしいのです。
「お前は路次の入口でしばらく立ち止まりはしなかつたか?角の菓子屋のあたりに些(ち)つと立ち止つて……それから……」
 私はしばらく考へてゐるうちに、井戸のあるわきに鯉屋が鯉を料理つてゐるのを眺めたことを、その靑冷な鱗のいろと一しよに眼にうかべました。
「ええ、ちやうど鯉屋が鯉を秤つてゐたものですからそれを見てゐたのです。よく分りましたね。」
 さういふと父は變に悲しさうに笑つて、うむ、このごろは妙だよ、何んでも自分で他人のことを考へてゐると妙に考へあてることができるんだ。こんなことはこれまで夢にも思はなかつたことだと言つて、
「自分でもこんなに神經をつかつては惡いと思ふんだが、どうも仕方がない、──たいがいの事が考へ的てられるものだからツイ面白くなつてくるんだ。」
 さういへば此頃の父の顏は一と頻りの老人らしい、屈托のない表情とは違つた銳どさが感じられるやうになつてゐました。と言つても何處と言つては指摘できませんが、顏ばかりでなくからだ全體が銳どく、どこか素早いけはひが見えてゐるのでございます。こんな小さいことも、あんな災害のあとで誰人にも表はれたことのやうに思はれ、これは父一人ではないと思つたのでございます。──さう言へば先刻も言はれたやうに私自身もどこか銳どくなつてゐるかも分りません。私のやうにのろまな人間がこんな風になつたのも却つていいことのやうに思はれるのです。──ただ心配なのは父があんな風にあんまり每日考へ込んでゐたりして、どうかした氣のまぎれから鬱(ふさ)いでしまつてへんになりはしないかと思はれるのです。醫者の話ではこんどの震災では非常に病人が多くなつたと言ひますが、そのうちでも精神系統の發作的な疾患が多いと言つたが、あなたのお父さんのはそんなに心配したほどのものではない、──あれくらゐならよくある病氣だと一笑に附してしまつたやうですが、私はなぜかそんな簡單に考へたくないやうな氣がしてゐるのです。と言つて大したことになるとも思ひませんが、ああいふ症狀がじりじりに進んだら?──といふ心勞がかなり私を怖がらせてゐるのです。あんな症狀といふものは人間の精神を一度でも犯したら、それきり消えて終ふか、又それなりで永く繼續してゆくかの二途あるだけなんです。こんどの天變にともなつてゐるだけに或ひは生涯あのままで父は父自身にもよく分らないことを考へつづけて行くかも知れません。恐らくあれきりで立ち消えになつてしまふ症狀とは思はれません。ただ私の一番恐ろしいことはあのままの症狀が總(すべ)ての病理的統計の上でも正確な數理があるやうに、すこしづつ進んで行きはしないかといふことが氣になるのです。决してあのままのものでないかぎり今日より明日へといふふうに進んでゆくものだといふふうに見るのが正しい見方だと思ふのです。そしたら父はしまひにどうなるか、それは私は知りません、ただ左ういふ父を每日ながめなければならない私が此のままの心持ちを持つてゆかれるかが恐ろしいのです。
 それでなくとも此頃の私は妙に父に似た或る心持ちをだんだんに踏んで行くやうで怖いのです。父の考へてゐることとは別ですが、父と同じい日常を送る私がだんだんに父に近い心持ちを受け繼いだり、知らず知らず摸倣することはどうしても免れません。私はそれだけが恐ろしいのでございます。




底本:『女性』第5巻第5号 プラトン社 8-25頁
  1924(大正13年)年5月1日発行
入力:紫の豚
2013年3月9日作成


テーマ:小説 - ジャンル:小説・文学

English Here
  1. 2013/03/09(土) 00:30:43|
  2. novel
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<■立原道造 『鉛筆・ネクタイ・窓』 | ホーム | ■宮崎駿『風立ちぬ』試論1.0>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://purplepig.blog28.fc2.com/tb.php/26-05b8c25c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

紫の豚

Author:紫の豚

twitter

最近の記事

月別アーカイブ

カテゴリー

book list

FC2カウンター

最近のコメント

ブログ内検索

google ad

カスタム検索

ad

blog ranking

人気ブログランキングへ

book log

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。