○戯論遊戯○

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■立原道造 『鉛筆・ネクタイ・窓』

鉛筆・ネクタイ・窓
立原道造




 僕は、自分のかんがへを色鉛筆で辿らうとする。あの黑い線を紙の上にのこしてゆく普通の鉛筆がなんとなくきらひなのだ。黑い字でかんがへた思想と綠の字や靑い字でかんがへた思想とは自然にどうしてもちがつてゐるやうにおもはれる。ひとはよく、ペンと毛筆とで書かれた文章のそれぞれの微妙なちがひを言ふことがある。それとおなじやうなことなのだ。
 鉛筆が白い紙の上を滑つてゆくときにはいいかんがへがひとりでにながれ出る。それがためらひがちな足どりをするときには、かんがへが滑らかにながれ出ないのだらうか、それともすべりのわるい鉛筆がかんがへを妨げてゐるのだらうか。小學生のたどたどしい數字が西洋半紙のうへにごしごしと押しつけられてゐるのを見ると、小學生の頭のなかで組み立てられてゐる算術の世界が可愛らしい建築のやうに眼に浮ぶ。まちがへられた計算の途中で、算用數字はちひさい穴になつて、その計算ちがひの穴のあちらに、算術よりももつとひろい世界に桃の花が咲いてゐたりトンボが飛んでゐたりするのが見えるやうだ。
 よく切れるナイフで鉛筆を削るのはなんとうれしいのだらう。色鉛筆の赤い粉の散るのがうれしくて草にねて削つたといふ昔のひとの心ばえがしのばれる。削らないままの鉛筆を二本ほど机の上にのせたままおいて幾週間か過ぎたら、それにナイフをあてるのがむごいやうな氣がして、たうとう削らないままになつてしまつた。削らない鉛筆は、ともらない洋燈のやうにかなしい。しかし本をよんだり物を書いたりするのに疲れた眼を、その二本の鉛筆の上にひよつとおとすと心はなんとなくあたたかくなるのだ。「駒込ロンドン」といふ隨筆のなかで、若い日の室生さんが西洋蠟燭を二本宛靑木堂で買はれて部屋に飾られて貧乏除けの咒(まじな)ひにされてゐたことを讀んだ。僕の二本の鉛筆もさういふ氣持を、氣持の奥にひそめてゐるのではなからうか。だからその鉛筆はムーンスターやトンボではいけなくて舶來のお城のしるしのついた鉛筆なのだ。「バヷリヤでつくられた」とちひさい金文字がちりばめられてゐた。とほいとほい國、はるかな海のあちら、そして何にとも知れない郷愁。そんな心のありどころが、僕には二本の鉛筆をぼんやり見てゐるときに、それをとほりこして自分ながら、かなしくなつかしいのだ。




 僕は夜店のやうなところで一本金二十錢也のネクタイを買つてはしめることにしてゐる。上等のきれいなネクタイをきちんとしめてゐることは僕にもずつとうれしいことだが、あのだれもかれもがしめてゐるなんの人生へのフアンシイもないやうなありきたりのネクタイだけはどうしてもきらひなのだ。それよりも身ぎれいな人びとは輕蔑して見かへりもしないやうな金二十錢也のネクタイからあはれな一本をえらび出して身につけることはどんなにかなつかしいことだらう。だがそれらはすぐにしわだらけになつてしまふ。或るひとつははじめてそれをつけたときには友人たちがじつにいいネクタイだとほめてくれた。ピカソの繪のやうな色の調子だなどと言つて。それが次の日には、すつかりしわだらけになつてしまつた。そしてやがてよれよれになつてだれも見かへらなくなり、そのときはじめて僕はしみじみとそのネクタイを愛するやうになつた。だがどうしてこんなにはかなくそれらはしわになつてしまふのだらうか。安物の人絹だからなどといふ理由はたいへんに無意味である。僕は何かしらもつとあはれなはかない理由のことをかんがへてゐる。そしてそれを結ぶとき、その理由の世界へなつかしさを感じながら、いつもそのよれよれを襟に飾つて街を歩きまはる。
 そして僕のけふのひとつのねがひは、東京でなく、コペンハーゲンやプラーグやストツクホルムやオスローやウヰンで、そんなネクタイを手にいれてそれを飾りたいといふことだ。




 僕は、窓がひとつ欲しい。
 あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓臺は大きい方がいいだらう。窓臺の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐた。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし靑の强い色だ。そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか靑に溶けこんでゐる。
 僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に坐つてうつらうつらと睡つてゐる。夕ぐれが來るまで、夜が來るまで、一日、なにもしないで。
 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……

 ……僕が、「窓のないモナド」といふことをかんがへてゐたとき、心の裂目に浮んだ夢のやうなねがひだ。論理や思考の石だたみのあひだに雜草が芽生えるやうにこのやうなフアンシイは勢よく伸びる。僕の心は、かへつてほかの場合とおなじやうにこのやうな雜草の方に强く惹かれる。
僕があの鐵道草の白い花を愛するやうに。




底本:『立原道造全集 第6巻 雜纂』 角川書店 258-260頁
  1973(昭和48年)年7月30日初版発行
入力:紫の豚
2013年8月4日作成


テーマ:雑記 - ジャンル:小説・文学

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  1. 2013/08/04(日) 12:00:00|
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