○戯論遊戯○

無知蒙昧な人間が記す、ブログ。日々勉強。

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■堀辰雄の関東大震災 室生犀星『母』


室生犀星




 いまから考へると何が何やら一切夢のやうな氣がします。だいいち母があんなに慘たらしく死んだかどうかさへ私にはまだ信じられないのです。どこかへ用達しにでかけたまま歸つて來ないやうな氣がして、私はよく門の前へ出てみることがあるのです。母は小刻みにちよこちよこした早足のくせを持つてゐるのですが、どうかすると能く門の前にそんな足音をきくたびに何氣なく歸つて來たのだらうと思ふことがあるのです。しかし次ぎの瞬間にはそんな筈がないと諦めてしまひますが、とにかくそんな瞬間が一日に何度も不用意に私を考へさせることが多くて、だるい、物憂い氣もちがつづいてなりません。まだ私が二十やそこらの歳ですから、あなたと異つて一層母のことが思はれてならないのです。あなたのやうな年齡になれば先刻も言はれたやうに、母親といふ感じが餘程太くなつてゐるやうですが、私のやうな若い年配では母といふ感じが非常に繊細で、どうやらまだその傍を離れられないやうな氣がいたします。つづめて言へば母の生活からすつかり離れてゐなくて、何一つするにも母に話さなければならないやうな氣がしてゐるのですから、──假りに私の着物などもむしろ私の好みよりも母の好んだ見立てが多くて、私はそれをまるで母に着て見せるためにも存在してゐるやうな氣がすることがあります。いくらか派手好みな母はいつでも用達しのかへりにはお前によく似合ふがらがあつたとか言つて、こんどあれを見て來るといい、もし氣に入つたら買ふことにしようなどと言ふことがあるのですが、私はまだ母のさういふ吳服屋の飾り窓へ近づいたこともありません。なぜかと言ふと母の見立てはいつも私とは反對で、がらが優しすぎたり派手だつたりするのですから紺絣でたくさんな氣でゐる私の氣に入らう筈がないのです。が、それを無理に進めるといふことはありません、氣に入らないと申しますと、わたしには大へんお前に似合ふと思つてさう言つたんだけれど、肝腎のお前の氣に入らなくては仕方がないと言つて、それきりにしてしまふことが多いのです。
 妙な話ですが私の家は職人もたくさん使つてゐましたが、會計の方はすつかり母がしてゐたのでございます。職人への時貸しや問屋への心使ひなども何から何まで父は任せきりでした。だから父は職人を廻すだけの仕事でむしろ閑散な位置にあつたのです。それ故すこし込み入つた話があると父はすぐ母に相談するといふ風で、母の方ではそれに一々自分の考へを交へてゐたのです。ふしぎにそんな風で一家がまるく大した損もなく暮してゆけたのです。私の家の商業ですか?毛筆をつくる方なんです。もと日本橋の馬喰町にゐたんですが、都合で四五年前に本所へ越して來たのでございます。──大して繁盛したわけではありませんが、小ぢんまりと職人の方との呼吸も合つて皆が母を慕つてゐたやうな氣がします。もつとも父はああいふ好人物ですから母が問屋との懸引に出掛けたあとでも、やはり庭へ出て萬年靑(おもと)の葉を筆の穗で洗つてゐました。いつかも母が何かのまぎれに自分のうちで作る筆で萬年靑の葉を洗ふなんて、職人に見つかつてもよくないぢやありませんかと言つたが、父は其れもさうだなと言つてその時は止めましたが、あとから又毛筆をつかつて居りました。──夏の暑いときなど母が問屋へ勘定取りを濟してかへると肌脫ぎになつて、日本橋通りはまるで磧(かわら)のやうに暑かつたと言つて、金の勘定をするのでしたが、父はそんなときにをかしなことには、母の肌へ團扇(うちわ)をつかつて風を送つてはやつてゐました。そんなことがしよつちうあるので私は珍らしく思ひません。母は二十二のときに私がうまれたのですから、さうです、たしか今年は四十三くらゐでせう。若いときは自分でも瘦せてゐたと言つてゐましたが、このごろは妙に色が白くなつて肥つてゐました。からだなぞたうてい四十三の人と思へないくらゐつやつやしてゐるので、──どうかすると私などまともに見られない氣がしました。母などといふものは不思議な羞かしさがあつたり、一種の不愉快に似た氣もちなどが手傳つて夏など裸で涼むのを見ると、つい面をそむけるやうな氣になります。ときとするとひどく厭な氣もします。──
 いつかお宅へ參つたときがありましたね、あのときも私は一しよでは厭だと言つたのですけれど、是非一しよに行くと言つてやつて來たのでございます。よくよく考へてみますと母は私と一しよに歩いたりするのが樂しみなやうだつたとも思ひます。たとへば電車に乘つても用事もないのに私に話をかけたり、名前を呼んだりするのです。他の人が注意して居ればなほのことです。お宅へあがつたときにもお前のお世話になる人をお母さんがちやんと見て置いて上げる。さうすりやお母さんも安心してお前のことをおたのみできるからと言つて聞かなかつたのです。──かへりにあなたのことを最(も)つと年を取つた方だと思つたが、あんまり若いので驚いたと言つてゐました。母親はあのとほりの下町育ちですから山の手の奥さん連中と話をすることを好きません。だからあなたに玄關で會ふとすぐかへつたのでせう。そのさきにも奥さんにあはないで旦那さまに會ふ工風はないかなどと子供らしいことを言つたりしてゐました。きつと文學者などといふものの奥さんは窮屈で固苦しいものだと平常から考へてゐたものにちがひありません。
 私を引摺り廻すのはいいが、この前をかしな話があるのです。神田に製本屋があつて牛込の有名な本屋のものばかりをやつてゐましたが、あるとき母はそこへも菓子折を持つてわざわざ出掛けて、その牛込の本屋から息子の本が出るやうなことがあつたら是非骨を折つて周旋してくれと賴んだのださうです。ところがその製本屋も製本屋で萬事引受けたやうなことを言つて、何んにも知らない母を喜ばせたことがあとで私に知れました。私は笑ふこともできなくて、さういふところにも母の心がひそんでゐるかとおもふと、その子供らしい氣もちが何か有難い氣がしたのでございます。世の中には存外ばかばかしい事でその實は决してばかばかしくない誠實のこもつてゐる事があるものです。母の塲合は全くその後者でなければなりません。母は私が大學を卒(お)へたららくをするのだと言つて、そのときは結城のみじんな縞がらを着て花でも生けてくらすのだと言つてゐました。お前だちは何處か郊外に世帶を持ち、私はやはり下町からときどき行つてお前だちの暮しを見て上げませう。その時分になつたら嫁と二人でお母さんを大切にして吳れなければいけません。お母さんは何も食べたくはないが、お彼岸のおはぎくらゐはお前だちの家の緣側へ出て小さい庭を眺めながら食べたいものだと言つたりしました。下町にゐるものですから東京の年中行事を樂しんで送つたものでございます。そんな行事を何一つ缺かしたことがありません。
 も一つは母は私の學校へ行つてゐる間に何時でも二階へ上つて來て、みだれ箱の中や机の上の書きものを搜して、もし五六枚の詩の原稿が溜つてゐたりすると、きつと私がかへつてからあれを吳れないかと言ふのです。私は私で妙な癖があつて何時も詩の原稿をきちんと綴ぢ上げ、それに表紙をつけておくのです。詩の原稿といふものはあなたの傳記にもあつたやうに矢張り綴ぢて置かないと、いつの間にか失せてしまふものですから、私はいつも左うして假綴のまま机の上においておくのでしたが、母はそれを珍らしさうに見ては吳れないかと言ふのです。
「お母さんには何をかいてあるか分らないぢやありませんか、そんな分らないものを上げたつて仕樣がない、──。」
「いえ、あたしにだつて讀めばわかります。お前のゐないときに何時も讀んでゐるんだから、いつの間にかいくらか分るやうになつたんですよ、それをお寄越し、ただぢや氣の毒だから母さんがちやんと買つてあげよう。」
「あげるなら只あげたつていいんです。賣るなんてことはできません。」
 母はあなたの原稿などが本屋や雜誌社に賣れるんだから、誰も買手のないお前の原稿を買ふのは別にふしぎぢやないぢやありませんか、そりやお前が學校を卒へたら本屋でも雜誌社でも買つてくれるでせう、だがいまは誰も買手がない、──だから私がかはりに買つて上げるのだと最う一人ぎめにしてしまつて私の原稿を自分の手文庫へしまつてしまつたのです。そのときにも、
「わづかの間だつたが最うお前の書いたものが、この曳出しに一杯になつてしまひましたよ。」
 さう母が言つて何時の間にかいはゆる買ひ上げた原稿の束をつまみ上げて見せました。私はこんな子供らしい事を咎める氣にもならずに默つて微笑つてゐました。いつたいに私の母はそんな年ごろになつても更紗の古いのや、錦のボロや、古い甲斐絹などの小布れを珍らしがつて小さい張紙の箱に藏(しま)つておくほど子供らしいところがあつたのです。もちろんお弄(もちゃ)品はいふまでもありません。何んでも母には面白さうな品でさへあれば喜んでしまつて置くくせがあるのです。うちの茶の間の長火鉢の上に住吉人形が釣るされてゐるのも、いはば母の趣味からで左う言へば玄關さきの笹をめぐらした踏石や辻燈籠の類まで何一つ母の好きでなかつたものはありません。そして暇さへあれば植木屋を呼んであれをああしろ、かうしろと指圖しては閑暇なときは自分も一しよに庭へ出てゐました。──言ひ忘れましたがれいの詩の原稿は母が持つてゆくごとに机のノートの下に五圓紙幣が挾まれてゐました。そのことを决して口へ出しては言ひません。だから私はいつの間にかそれを默つてつかつてしまふのです。私が原稿生活をするかどうか分りませんが、するにしても私に最初に稿料を拂(はら)つてくれたものは本屋でも雜誌社でもないわけです。
 そんな母ですから私よりも父にむかつては却つて中々きびしいところがありました。いつか父が向島の料理屋からかへつてきて、うちでも一本飲んでからこんどは私をつれて行つてやらうと言ひ、なかなか美しいお雛さまのやうな女がゐると言ひました。父はいい氣嫌で左う私に言ふことによつて隔てなく微笑つてしまはうといふ氣でゐたらしいのです。が、母はそのときむつとした顏をして父にむかつて、
「わたしのゐる間はそんな事をあなたにしていただきたくありません。これが何を知つてゐるものですか、そんなものに戯談(じょうだん)を言ふつてことがよくないぢやありませんか。」
 さう言つて顏を染めました。父はすぐ氣づいたのか、きまり惡さうに私の顏をみると戯談だと言つて、それきり再(ま)たと言つたことがありません。母のあのくらゐ眞面目な顏と心から怒つたやうな顏とを見たことが、その後にだつてあまりありませんでした。父は若いころすこしくらゐ道樂をしたさうですが、近頃になつては料理屋へもあまり立ち寄らないで家で晩食をとるやうにしてゐましたが、あるひは母のしきたりがよかつたのかも知れません。どちらかと言へば父は人の好い方なので誘はれたらきつと出掛ける方だつたのです。──それに近ごろになつてから、母はときどき妙に寂しい顏をして、
「お前が切角おあしを取るやうになつてもお前からおあしを貰つては何だか濟まないやうな氣がするから、その時分に不自由のないやうに花を生けることを習はうと思つてゐるんです。そしてお花のお師匠さんにならうと思ふがどうかね。」
 が私は微笑つて取り合はないうちに、何時の間にか母がお花をならひにでかけるやうになつたことをあとで知りました。父の仕事の方でもかなり忙しいのにどう時間を都合してゆくものか、晩なんぞ座敷へ坐つて竹の筒をならべ、夏菊に鋏を加へてゐたりしました。それを一人で夢中でやつてゐるのを見ると、なぜか母をいつになくいとしげに感じることがあるのです。花を生けて終ふとやれやれ疲れたと言つてゐました。そのかはり床の間には赤い夏菊がいい恰好に生けられてゐました。私はそれを何氣なくなかなかよいと賞(ほ)めると、母はわらつてまだ本式には生けられないのだと寂しさうに自分も床の間に眼をやるのでした。──あるひはその時にもう母に初老がやつて來てゐたのかも知れません。何となく初冬の感じを感じさせる初老は、さう言へば近ごろすこし烈しくなつたやうな氣もいたします、──と左ういふより今から考へると何も彼もあんな不自然な死にようをする母を考へさせずに置きません、──。ああなるためにも種々な事が工合よくあとあとに頭に殘るやうにさせたのかも知れません。



 私どもは恰度(ちょうど)晝飯(ひるめし)を食べかからうとしたときに地震が來たのでございます。はじめの一秒間は例の東京によくある普通の地震だとしか思ひませんでしたが、次の二秒間には──何か知ら何時ものそれでないことが直覺されました。すこし荒いなと思つてゐるうちにどーんと上へぐいと押し上げられたやうな氣がして、これは大地震だと思つたのです。母はすぐ
「大事なものは皆わたしが持つて出るから、みんな外へ出なさい、──お前何をしてゐるんです。」
 さう叫ぶと母は奥の間の簞笥の小曳出しから銀行の通ひと現金とを持ち出し、父が着物類を取り出さうとしてゐるのを見ると、
「着物はあとでも關(かま)ひません。」
 さう言つて通りへ皆が飛び出しました。私だちはまるで暫らくは立つてゐられなかつたほどです。「地面に手をついてゐらつしやい」母は父にさう言つたので、私もそのとほりにしました。が第二番目の地震が來たときは母は落着いてしまつて、鎭まるのを待つて兎に角みんな着換へをして何時でも遁げられるやうにしようと言ひました。父も私も平常(ふだん)とは少しよい着物をと言つても暑い時分のことだし、とにかく新しい浴衣を着てから道具類を少しづつ纏めました。そのときは旣(も)う吉原一面が、火になつてゐたのです。が誰言ふとなく深川と本所にも火が出たといふものが居ました。外へ出て見ると私は喫驚(びっく)りしてしまつたのです。火の手があちこちに起つてゐるのです。對岸はと見ると京橋あたりらしい一面の煙と、そのわきに日本橋がさかんに燒けてゐる、──。どうやら下谷あたりにも新しく燒けはじめたらしく白い煙が風の間に吹き流されてゐました。
「こりや全(まる)で東京ぢゆうの火の手ぢやないか?」
 私は家へはいると母にその事を告げましたが、母は案外落着いて、こちらは何しろ隅田川を控へてゐるんだから、橋さへ燒けなかつたら大丈夫だと言ひました。私はそのとき何氣なくその橋のことがぼんやりと氣にかかりましたが……
「どんな火だつて隅田川は越せるものぢやない、──。」
 父もさう言つてゐましたが、とにかく母は臺所(だいどころ)から御飯を持つてくると、お腹をこさへて置かないと働けないからと言つて食べかけの晝飯をたべ、そして一同が家の外へ避難しようとすると表の方で先刻からとは別な生々(いきいき)した騒がしさがしました。全く攪亂(こうらん)の中にも新鮮と疲勞とがあるものです。私だちが耳をかたむけたときに外の騒がしさが全く胸を悸然(ぎょっ)とさせました。そのとき母はすぐ裏戸を開けると
「火が廻つた、──。」
 さう言つて皆に逃げなければ駄目だと言ひました。まさかと思つた水戸さまの屋敷の前まで火がやつて來たのです。そとへ出ると母はかう言つて蒼白い變にゆがんだ顏つきをして、
「みんな吾妻橋の上で會ふんですよ、もう道具なんぞはどうでもいいから。」
 さう言ふと表に入り亂れた群衆のなかへ紛れ込みました。その瞬間に私はすぐ父の方を見ましたが、もうその姿が見えません。そして火は向島の土手の兩端からと更らに小梅町の奥からと私を挾み打ちにしました。私は土手下へ出るときに火さきで脛さきをぺろりと舐められました。聲を限りに母や父の名を呼んで見ましたが、蒸し返る群衆の叫びごゑや水の中へ皆が飛び込む音にまぎれて少しも聞えない、──そのうち私はもう仕方がないので川の中へ飛び込みました。そのときは土手上の人がばたばた水の中へ押されては落ち込んだりしてゐました。飛び込んだ人の上に又飛び込んだりするので下敷になつて、それきりになつた人もゐるらしいのです。
 私はあまり泳ぎを知りません。しかし平常は二三町なら泳げるのですが水の中では一向泳げません。何だか後戻りするやうな氣がしたくらゐです。その筈です對岸の淺草一帶に何時の間に火が移つたものか、公園を中心にしてまるで燠のやうに火が蒸れ上つてゐて、それを見ただけでも泳ぐ手が力なく凍えたやうになつて了ふのです。それに川の三分の一くらゐまで行つたときに、私は生れて初めて龍卷きといふものがあんなものかと思つたくらゐ吃驚りしました。それは火風に煽られた旋風が川のまん中に渦を卷いて、川水が二尺くらゐ盛上つてぐるぐる眩暈するほど舞つてゐるのです。幅は二間くらゐあつたでせう、まん中に白い泡がむら立つてそれが波紋を起してまるで砥ぎ澄したやうに美しく盛り上つて獨樂(こま)のやうに廻つてゐるのです、──そこまで泳いで行つた人はまるできりきり舞ひをやつて、卷き込まれて了つたのです。その卷き込まれた人が上つてくるときは三間から五間くらゐ下流へぽつかりと死體になつて浮きあがつて行きました。九月一日は旋風でしたがあんなに酷い龍卷きがあつたのは火風のせいに違ひありません。私はその渦卷の輪廓にいきなり肩さきを斬られたやうな氣がしたとき、思ひ切つてわきへ泳ぎ刎ねたのです。まだほんの輪廓にふれたくらゐだつたからでせうが、今から考へると全くあの渦の中へ呑み込まれたら、こんなにしては生きてゐられなかつたでせう。しかも皆はその渦卷きのそばへ行くまでそれを知らなかつたのです。何んだか大變水嵩があると思ひながらも何かきつと橋の杭のやうなものでもあるのだらう位ゐに考へてゐるうちに、その渦卷の輪廓の第一線に肩さきを奪られたらそれきり足をすくはれて了つて、からだが三四度ばかり舞つてぐいぐい底の方へ引き摺り込まれてしまふのです。ですから私は目前にそこへ陷込む人を見ましたが、聲を出すことさへ厭になつて却つて面白いものでも見るやうに茫乎(ぼんやり)と眺めてゐたほどです。──あなたは先刻私がわづか一晩のあひだにすつかり顏つきが大人になつたと言はれましたが、あるひはさうかも知れないと思ひます。そんな光景を見せられたら全く大人じみた顏くらゐにならなければ餘程の白痴だと思ひます。
 それから最う一つ私は恐ろしいものを見ました。ちやうど蒸汽船が通りかかつたので私は叫んで見ましたが、とても助けてくれさうもありません。その筈です川一杯にながれた人間がみんな叫んでゐるのですもの、しまひに蒸汽船の方で逃足を食つてどんどん走らうとするのです。私はそのとき今あの蒸汽船に追ひ付かれなかつたらそれきりで溺れ死になつてしまふだらう、これはどんなにしてもあれに追ひつかなければならないと思つて、一生懸命になつて蒸汽船目がけて泳ぎつきました。そのときの嬉しさはまるで夢中でした。あとでよくあんなに泳げたものだと思つたくらゐです。──そして蒸汽船に乘つてゐましても、兩側の火が飛び交うて熱くて仕樣がありません。これは船まで燒けて了ふのだと思つたくらゐです。しまひに船頭はもう船には人を乘せたらこちらがお了ひだと言つて、もう蒸汽船に一間と近づいた人でも救ふことをしなかつたのです。私もそれは仕方のないことだと思ひました。──だいぶ下流へ行つたころに橋の上に火風が下りたと見てゐると、まるで水でも打ちかけたやうにぺろぺろ橋が燒けはじめました。あんなに早い火脚を見たことがありません、今放(つ)いたかと思ふと旣(も)う向側の橋の最後の板の上にまで火さきが走つてゐたのです。なるほど火風に蒸されてゐたために譯なく火が乘り移つたに違ひありませんが、あんなに鐵材(てつざい)の多い橋にあんなに火が早く移るなんて、あれを眼に見たものでなければその恐ろしさを知ることができません。──蒸汽船は火の海のなかを走つてゐたのです。船屋臺(ふなやたい)なぞぷすぷす煙つてゐました。
 しかし母のことを考へたのは、やつと自分が助かつてからでした。吾妻橋はとつくに燒け落ちてゐましたから、あそこで待ち合すことなぞ夢にもだめなことでした。では母は一體どうしたらうか?さう思ふと私は川の中に鮒のやうにぷくぷく浮いてゐた人間の死體を思ひ浮べたのでございます。私は靑い川水を覗き込み二三人の死體をもしらべましたが、やはり母は無事だとも死んだとも思ふことができませんでした。どつちを决定して考へるにもあまりにまざまざと現狀を見てゐた私には、わかり過ぎてゐることをもハツキリ見分けることが出來なかつたのです。──そして父は?と思つたときにもやはり同樣にぼんやりと考へてゐるだけでした。生死を自分で决定する考へはどうしても起らなかつたのでございます。



 私は池袋の知人、──母方の親戚へ身をよせてゐましたが、二日の午後、父がぼんやりと歸つて來ました。汚ない浴衣を一枚引つかけたきり顏は一晩のうちにすつかり瘦せ落ち、頭髪は全く眞白になつてゐました。こんなに人間といふものはたつた一と晩のうちに變貌するものだらうか、──私は父の顏をみるなり何故か惡いことをしたあとのやうな氣がしました。それは私が母と一しよにゐなかつたために、まるで母を見殺ろしにしたやうな氣もちを私は私自身のなかに感じたのでございます。これと同じい氣もちがすぐさま父に對つて感じる私でもありました。しかし父はすぐ私のかほを見ると、ほつとしたやうな顏をして、
「お母さんを知らなかつたか?」
と言つて自分自身も知らないことを暗示しました。
「ええ、吾妻橋へは行けなかつたのです。仕方なく川へ飛び込んで蒸汽船に助けられたんです。」
「さうか、そりやよかつたが……。」
 父はがつかりした顏つきだつたが、その表情にはすつかり諦らめてゐるやうなところもあり、さんざ昨夜から考へ通して疲れたあまり母のことを言ひたくないといふ氣はひも見せました。
「とにかく川へ這入つたらしく思はれるんだ。かうしてゐるより一つ搜しに出掛けようではないか、土手を中心にして行けば分るだらう、──。」
 父と私とは提灯と食物とを用意して、その日から土手の上の死骸を一つ一つしらべて行きました。ところが着物など着てゐる死骸がすくないために、いちいち死體の顏を上へ向けて見なければならなかつたのです。着物をきてゐる人はその縞がらで分りますが、さうでないものは顏とかからだつきとかを見なければならなかつたのです。私はその臭氣よりも一つ一つの顏をみるのが厭でした。が、そんなことを言つてゐられる時ではありませんから父のあとについては見てあるきました。たいがい溺死者が多かつたせいか、顏などもそのままに靜かな顏をしてゐる娘さんや、下町のおかみさんらしいのもあり、なかには睫毛でくろぐろした眼を美しく閉ぢてゐるのなどありました。
 そのとき私はふと母がへいぜいから指輪を好いてゐたことを思ひ出したのでございます。──お話ししたやうに萬事男のなかを切り廻してゐた母親は派手好みの、わけても變化(かわ)つた指輪が非常にすきでした。甲蟲のやうな色をしたあれは何といふ石かも知れませんが、それを横濱の印度人の開いてゐる何とか言ふ店から買つて來たり、銀座では一と頻り流行つた蛇のかたちをした銀の指輪を買つたり、眞珠やプラチナなども持つてゐました。が、どういふものかダイヤはひどく嫌つて决つてはめなかつたのです。──商人である父はダイヤは財產も同じだから他の下らないものを買つたりするよりダイヤを一つだけはめたらどうだと言ひましたが、母はあれは分限者か俄大盡(にわかだいじん)のはめるもので私などのがらではない、第一あれは嫌ひだと言つてたうとう一生──今では全く一生箝(は)めなかつたのでございます。
 そんな譯ですから私はなるべく死體の右の手を眺めて歩いたのです。私の覺えのある、れいの甲蟲色をした指輪をその日はめてゐたやうですから大槪見間違ふことはないだらうと思つたのです、──が、ふしぎにも何の死體にも指輪が極く稀れにしかはめられてゐなくて、はめられた分は指さきにまで水氣が上つてゐるせいか、指輪も埋るくらゐに膨れてゐたのです。それに死人の指さきに指輪のはめられてゐるのを見るのといふものは、生前死後の生活のつながりを差し覗いて見たやうな氣がして、何とも言はれず寂しい氣がしました。
 そのうち日暮れになつたので提灯をつけて何百といふ死體をいちいち覗いて歩きましたが、私だちと同樣に灯をつけた群衆があちこちに死人の顏をさがして歩いてるのを見ると、何だか戰爭のあとのやうな氣がしてなりませんでした。しかもまだ火の手があちこちに起つて、くすぶつてゐる焦土から絕えず煙がながれてゐました。そして夜の九時すぎに土手下の窪みにやつと母の姿を見つけたのでございます。
 母はちやんと甲蟲色の指輪ははめてゐましたが、持つて出た筈の現金や通帳は持つてゐませんでした。私は襯衣(シャツ)一枚になつてゐる母の姿を見ただけで、すぐに泪も出なければ悲しい氣が起りませんでした。その筈ですあたりに算を亂した死體はどれもこれも裸同樣だし、さういふ慘たらしい姿を一日打通しで見つづけた私には、すぐには悲しくなれませんでした。
「やつぱり川へ飛び込んだものらしい、──傷一つしてゐないぢやないか、だが、この髪は焦げてゐる。」
 父はさう言つて髪の毛に手の平を觸れましたが、どの死體も同じいやうに髪の毛は亂れてゐて、焦げた痕が殘つてゐました。私は父と母との情愛といふものを是まで一度だつて考へたことはなかつたが、何故か父が母の髪の毛に觸つたときに非常に刺戟的な悲哀をかんじました。父の顏は泣くやうな泣かないやうな變な顏をしてゐたのでございます、──大方私が蒸汽船に辿りついた時分に、母は私や父の名を呼びながら、火に燒かれて苦しまぎれに入水したものだらうと思はれるのです。その表情には安らかさがなく、苦しんだあとがありありと殘つてゐたからです。私は私自身がかうして生き殘つたことを此の不幸な母のために何故か惡いことをしたやうに思はれてならない氣がしたのでございます。あるひは父だつて同樣な考へをもつてゐたかも知れません。私だちは死體を荷車に乘せて父が曳き私があと押しをして行きました。あんなに派手好みな母が荷車の上で靜かに仰向きになり、顏には手拭ひをあてられたまま、焦土のわかりにくい道を市川の知合ひまで搬んで行つたのでございます。途々私は母の聲音を何度も耳にしたことは言ふまでもありません。だが、母はもう冷たくなつて車の上にゐるではないか?──私はさう思つても矢張り母のこゑが轣然(れきぜん)とした轍の音にまぎれながら起つてくるのでした。
「幸雄。」
 私はきふに冷たくなつて伸び上つて、母のすがたを見ました。
「うしろへ摺り落ちさうぢやないか?うしろが非常に重くなつて來た、──。」
 父はさういふと些(ちょ)つと車を止めて、母の姿を前へ引くやうにした。私ははじめて父が私を呼んだことに氣がついて、父に手傳つて母を上の方へ押すやうにしました。──そのとき私どもと同じい死體を尋ねあてた人々が、あるひは擔(かつ)いだり車に乘せたりして續いて背後に見えました。私はどれだけの人死があつたかを知らないがその瞬間には生き殘つた私自身をすら不思議に思つたくらゐでした。



 私はまだ母が死んだといふことが信じられずに居ります。庭や樹の間をみてゐると植木屋を對手に下草や庭木の手入れをしてゐる姿がまだ眼を去らないのでございます。──
「お前とお母さんの名前ばかりを叫んで走つたのだ。どつちかが生きてゐてくれれば必然(きっと)答へてくれるだらうとあんな混雜の中に呼んで歩いてゐたが、たうてい知れるわけのものではない、──唯ふしぎなのは吾妻橋の方にもちろん氣のせいだらうがお母さんの聲がした。あれもお前や私が死んだものと思つてゐたらしい、──きつと左う思つて死んでしまつたのだらう。」
 とにかく父は火に趁(お)はれると、土手下の石垣へ下りて石垣にぴつたりと食つついて、兩方の袂をちぎつてそれで頰かむりをして、絕えず水の中へ頭をつき込んでは一晩ぢう首だけを水面に出してゐた。いま水につかつたと思ふと三分と經たないうちに頰かむりをした布地が乾いた。私のよこにも前にも澤山の人がみんな鵜のやうに水へ這入つたり出たりしてゐたのだ。そのうちに何時の間にかだんだん居なくなつたことに氣がつくと死體がよくからだに突き當つた。そのたびによろよろして石垣にかじりついた手を離さうとしたくらゐだ。私は人間の足があんなに輕く水の上に浮くものだらうかと思つたくらゐ、ぽつかり浮く手足をふしぎに眺めた。しかしどういふものかお前だけは川の中を泳いで向岸については居やしないかと思つた。お前はすこし泳げる方だから何故かお前は大丈夫だと思つた。だからもう夜明けちかくなつてから私はあれの名前ばかり呼んでゐたのだ。明るい川の水が、ぎらぎら火にあぶらがついたやうに燃えてゐるばかりだつた。そのなかにも平常ききなれたあれの聲が雜つてゐさうで何度も耳を澄したりした。
「今でも川の流れ工合が太腿をすうすうと通つてゆくやうな氣がする。水の中では少しも寒くなかつたが、上つてからは齒の根も合はないほど寒かつた。」
 父はかういふと、疲れた顏をして最う一度私の顏をながめてから、いくらか母を賞めるやうな口調で戯談めいて言ひました。
「これからお前の書いたものを買つてくれる人がないぢやないか?あれは何時でもお前の書いたものでさへあれば、私にも見せないで蒐めてゐた。自分で讀めないのは私に見せたつけが……。」
 私はそんな風に物を言はれると父を正視できないので、そつぽを向いて、そして初めて父とか母とかいふものは世に類ひ稀れなその子供にとつて悲しいひと達ちだと思つたのです。私のあんな詰らないものが父や母をこんなにまで面白がらせたのだらうかと思ふと、戯れに書いた私自身に罪があるやうな氣がして、一生詩なんかを書くまいと思ひ、文字をつづることが急に厭な氣がしたのでございます。もちろん私はあなたにもこれからは詩の原稿を見て貰ふ機會がなくなるかも知れません、──そんな氣を起す私自身が若いせいもありませうが、それよりも私はやはり古い日本人らしい、そして下町育ちの母親の理想であつた文學士になつて大學を卒へることばかりを今考へてゐるのです。こんな古くさい考へがどうして新しがりの私に起つたか?今どきの靑年らしくもない考へをなぜ私が抱くやうになつたかは說明できません。──ただ說明できるのは、母のあんなにまでデリケエトな心持にそつと私自身の手をふれたいだけなんです。そして母の理想を微笑んで爲し遂げる私の心持ちだけが人人の前に平氣でしかもわざとらしくなく釋(と)けるのでございます。ちやうど父が向島の土手の上で母の髪にそつと手をふれたと同じい工合に私は私の母の心に手をふれたいと思ふたのでございます。それは若い私のすることを笑ふ人もありませうがそれはそれとして、私は私の考へを押しすすめてゆく考へなんでございます。父は水につかつてゐたのですつかり腹を惡くしてゐましたが此頃ではだいぶよくなつたやうでございます。唯あまり永い間燒け落ちた人家の火の手を眺めてゐたせいか、すこし鳥眼のやうに晩になると視力が弱つてくると左う言つて居りますが、大方の人がみな鳥眼になつたやうに或ひはさうなるのではないかと思つたのですが、二三日前から餘程よくなつたやうです。──唯、晩方など戸惑ひするやうに襖などを開けたりすることがありますが、しかし大したことはなからうと思ひます。ふしぎなのは父はよくこんなことを言ひ言ひしました。
「お前にはへんに思はれるだらうが、日が經つに從つてあれが家のなかの、どこかに居るやうな氣がしてならない、──そんな筈はないと思つても氣のせいといふものは恐ろしいもので、奥の間に私が居ればあれは茶の間にゐるやうな氣がするし、茶の間に私が居ればあれは勝手口に働いてゐるやうな氣がする、──そればかりではない、どうかすると陶物(せともの)を洗ふ水の音さへ聞えてくるから妙だ。──お前にはそんな氣がしないかね。」
「いえ、──しかしまだどこかに居られるやうな氣はすることがありますが……。」
 私はかう答へると永い間父が一しよに居たせいで、さまざまな幻覺を感じるのだらうと思ひました。心理學の例證や索引によると親子友人の關係よりも、夫婦間のどつちかが早世したときに感じる幻覺が一番多いさうです。なかんづく妻にさきに亡くなられたあとはその夫が一等ひどい錯覺をかんじることも、どうやら此頃では本統らしく思ふやうになりました。ふしぎに父は夜よりも晝の方がよけいに母を感じることが出來ると言つてゐました。そのうちで一番ひどくやられるのは足音ださうです。さういふせいばかりではないでせうが、父は物音にたいして非常に敏感になりました。私などが小路を廻るとすぐ私だといふことを感じるやうになつてゐるらしいのです。
「お前は路次の入口でしばらく立ち止まりはしなかつたか?角の菓子屋のあたりに些(ち)つと立ち止つて……それから……」
 私はしばらく考へてゐるうちに、井戸のあるわきに鯉屋が鯉を料理つてゐるのを眺めたことを、その靑冷な鱗のいろと一しよに眼にうかべました。
「ええ、ちやうど鯉屋が鯉を秤つてゐたものですからそれを見てゐたのです。よく分りましたね。」
 さういふと父は變に悲しさうに笑つて、うむ、このごろは妙だよ、何んでも自分で他人のことを考へてゐると妙に考へあてることができるんだ。こんなことはこれまで夢にも思はなかつたことだと言つて、
「自分でもこんなに神經をつかつては惡いと思ふんだが、どうも仕方がない、──たいがいの事が考へ的てられるものだからツイ面白くなつてくるんだ。」
 さういへば此頃の父の顏は一と頻りの老人らしい、屈托のない表情とは違つた銳どさが感じられるやうになつてゐました。と言つても何處と言つては指摘できませんが、顏ばかりでなくからだ全體が銳どく、どこか素早いけはひが見えてゐるのでございます。こんな小さいことも、あんな災害のあとで誰人にも表はれたことのやうに思はれ、これは父一人ではないと思つたのでございます。──さう言へば先刻も言はれたやうに私自身もどこか銳どくなつてゐるかも分りません。私のやうにのろまな人間がこんな風になつたのも却つていいことのやうに思はれるのです。──ただ心配なのは父があんな風にあんまり每日考へ込んでゐたりして、どうかした氣のまぎれから鬱(ふさ)いでしまつてへんになりはしないかと思はれるのです。醫者の話ではこんどの震災では非常に病人が多くなつたと言ひますが、そのうちでも精神系統の發作的な疾患が多いと言つたが、あなたのお父さんのはそんなに心配したほどのものではない、──あれくらゐならよくある病氣だと一笑に附してしまつたやうですが、私はなぜかそんな簡單に考へたくないやうな氣がしてゐるのです。と言つて大したことになるとも思ひませんが、ああいふ症狀がじりじりに進んだら?──といふ心勞がかなり私を怖がらせてゐるのです。あんな症狀といふものは人間の精神を一度でも犯したら、それきり消えて終ふか、又それなりで永く繼續してゆくかの二途あるだけなんです。こんどの天變にともなつてゐるだけに或ひは生涯あのままで父は父自身にもよく分らないことを考へつづけて行くかも知れません。恐らくあれきりで立ち消えになつてしまふ症狀とは思はれません。ただ私の一番恐ろしいことはあのままの症狀が總(すべ)ての病理的統計の上でも正確な數理があるやうに、すこしづつ進んで行きはしないかといふことが氣になるのです。决してあのままのものでないかぎり今日より明日へといふふうに進んでゆくものだといふふうに見るのが正しい見方だと思ふのです。そしたら父はしまひにどうなるか、それは私は知りません、ただ左ういふ父を每日ながめなければならない私が此のままの心持ちを持つてゆかれるかが恐ろしいのです。
 それでなくとも此頃の私は妙に父に似た或る心持ちをだんだんに踏んで行くやうで怖いのです。父の考へてゐることとは別ですが、父と同じい日常を送る私がだんだんに父に近い心持ちを受け繼いだり、知らず知らず摸倣することはどうしても免れません。私はそれだけが恐ろしいのでございます。




底本:『女性』第5巻第5号 プラトン社 8-25頁
  1924(大正13年)年5月1日発行
入力:紫の豚
2013年3月9日作成


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  1. 2013/03/09(土) 00:30:43|
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■宮崎駿『風立ちぬ』試論1.0

 2011年1月8日、『コクリコ坂から』制作の真っ只中にあるジブリの制作スタジオを他所に、一人アトリエで新たな長編映画の企画書を書き始めた宮崎駿をTVカメラが捉えていた(2011年8月9日放送『NHK ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~』の一場面)。 鉛筆で企画書の文章を書いている宮崎駿の側には、眼鏡をかけた青年の横顔のスケッチが描かれた紙が置かれていた。NHKのコクリコドキュメンタリーが放送される数日前、宮崎駿の新作は“自伝”であると鈴木敏夫プロデューサーが明かしたという報道があった。だから、その“眼鏡をかけた青年”は宮崎駿自身ではないかと思った視聴者もなかにはいたのではないだろうか。一方で、「ポニョ」公開後の2009年に宮崎駿が月刊モデルグラフィックス誌で連載していたマンガを購読していた読者の頭にはある疑念がよぎる。あの零戦設計者・堀越二郎(眼鏡をかけていた)が主人公のマンガ『風立ちぬ』が映画化されるのかもしれない、しかも主人公はマンガにあったような豚鼻ではなく人間の顔をした姿で、と。その漠然とした思いつきは、新作の絵コンテ執筆に取り掛かった宮崎駿の作画机正面に貼られた絵によって、たちまち確信に変わった。『風立ちぬ』の主要人物であったジャンニ・カプロニーが「デッカイ飛行機つくるぞ」と書かれた文字とともに、そこにいたからだ。

 NHKのドキュメンタリー放送の10日後に発売された『CUT』2011年9月号掲載の宮崎駿のインタビューで、「戦争の道具を作った人間の映画を作る」「その男はその時の日本の、もっとも才能のあった男」「でも、ものすごく挫折した人間」「美しいものを作ったけど、それが高性能の武器だったという。ある意味では悲劇の主人公」と、宮崎駿の新作が『風立ちぬ』であることの裏付けとなる発言が多々なされた(『CUT』2011年9月号の発売により、宮崎駿の新作は『風立ちぬ』との噂がネットの一部で広まることとなる)。
 ピクサーでアートディレクターを務めている日本人・堤大介が企画した「スケッチトラベル」に参加した宮崎駿はそのスケッチブックの最終ページに、カプロニーの奇怪な巨大三葉旅客機(Ca48だと思われる)とそれを見上げる少年期の堀越二郎を描いた(描画期間2011年1月26日~1月27日)。奇しくも宮崎駿の新作イメージボード初公開となったオリジナルを複製したフランス語版「スケッチトラベル」は2011年10月5日に出版された(日本でも遅れて翌2012年8月15日に日本語版「スケッチトラベル」が発売)。
 2011年12月東宝ラインナップ発表にジブリ新作の情報はなかったが、翌年1月10日発行のジブリ機関紙『熱風』1月号にて宮崎駿の新作は2013年夏完成に向けて制作が進められていることが明らかになる。
 2012年4月1日、新作制作で忙しい宮崎駿が衆人の前に姿を現したのはアルカス大橋さんが制作した9葉8発化け物ヒコーキ・カプロニーCa60ラジコン機のお披露目会であった(またしてもカプロニー!)。アルカス大橋さんは、月刊モデルグラフィックスで宮崎駿が『風立ちぬ』を連載中、“ラジコンの神様”松田恒久さんに代わって依頼を受け、堀越二郎のエポックメイキングであり「日本でいちばん美しいヒコーキだ」と宮崎駿が語る“三菱の九試単座戦闘機 試作一号機”のラジコン機を制作した達人。宮崎駿が見学したRC「九試単戦」公開飛行会(2009年10月4日)のレポートは月刊モデルグラフィックス2009年12月号誌上、『風立ちぬ』第8回連載ページすぐあとに掲載された。宮崎駿がラジコン飛行会に来たのはそのとき以来、2年半ぶりである。プライヴェートな訪問にしては、ジブリ美術館関係者の他、賀川愛・高坂希太郎、吉田昇、奥井敦といった作画・背景・撮影の部門でスタジオジブリ作品を長年支えてきた主要スタッフまで引率してきており、Ca60のお披露目以外に、RC零戦の飛行とRC九試単戦の再飛行もおこなわれ、さながらジブリ新作の作画参考会の様相を呈していた。アルカス大橋さんのブログを読むと、どうやらCa60の制作もジブリ側の依頼によるもので(その証拠にCa60の胴体頭にはジブリ美術館の紋章が付いている)、カプロニーの飛行機としてはCa3のラジコン機を既に完成させており(この機体の飛行もMRC春の飛行会(2012年4月1日)で披露された)、1920年代末には世界最大だったカプロニーの巨人爆撃機Ca90の制作予定もあるようにみえる。これらはすべて宮崎駿のマンガ『風立ちぬ』に登場した飛行機たちである。
 2012年11月2日、東宝アドが「KAZETACHINU.JP」のドメインを取得した、という情報が発見される。取得されたドメイン名から、宮崎駿の11本目となる長編アニメーション映画タイトルは、『飛行艇時代』(月刊モデルグラフィックス連載)が『紅の豚』になったようなタイトル変更はなく、マンガ版と変わらず『風立ちぬ』のままになりそうだ。(こじつけかもしれないが、『風立ちぬ』の「ぬ」の文字のなかに「の」が入っていると考えれば、宮崎駿の長編映画タイトル「の」の法則は守られる。)

 2011年3月28日、宮崎駿は『コクリコ坂から』主題歌発表記者会見の場で、「今まで自分たちが作ってきたファンタジーを作る時期ではない」「人間を描かなければいけない」「今、私が進めている(次回作の)準備というのは、まさに等身大の人間が出てくる映画です」と語った。“等身大の人間”を描くとは、マンガ版『風立ちぬ』で一部のキャラ(女性やカプロニーなど)を除いたほとんどの人物(主人公・堀越二郎も含む)が豚面をしていたのは違い、全員を人間として正面から描くという宮崎駿の声明ともとれる。「スケッチトラベル」の宮崎駿の絵は、そうした姿勢を窺い知れる一枚である(マンガ版『風立ちぬ』では、堀越二郎少年は子ブタとして描かれていた)。
 宮崎駿の新作はファンタジーではない。しかし、実在した人物の人生を題材にしているからといって、ノンフィクションの物語というわけでもない。『風立ちぬ』では、七試艦戦設計の苦渋を味わってから九試単戦の設計に取り掛かるまでの間にあたる、昭和8年(1933年)夏の軽井沢で静養する堀越二郎が当地で出会った少女に恋をする。柳田邦男『零式戦闘機』によれば、七試艦戦に関わる直前、堀越二郎は結婚式を挙げ、既に妻帯者となっていた。だから、宮崎駿のマンガ『風立ちぬ』第6回の堀越二郎の告白「父上 菜穂子(少女の名前)さんとの結婚を前提にしたおつきあいをお認め下さい」や少女・菜穂子との軽井沢のロマンスは実在の堀越二郎とは矛盾することになる。はっきりいってしまえば「昭和8年堀越二郎・軽井沢の夏」は宮崎駿の創作ということになるのだが、そもそもが月刊モデルグラフィックス連載『風立ちぬ』の副題は「妄想カムバック」であり、軍事の雑学と薀蓄を推進剤にした宮崎駿の妄想全開マンガなのである。七試艦戦の型式を低翼単葉に定めるのに佐波次郎中佐にアドバイスを受けた史実通りのエピソードに付随して、「ぜひ君の美しいヒコーキをつくってくれたまえ」と文学者の堀辰雄(結核を患っているためか顔色が緑の犬の姿で登場)に言われ堀越二郎が自分の設計すべき飛行機のデザインが見えたとする妄想エピソードが織り込まれるのが、宮崎駿の『風立ちぬ』である。堀辰雄といえば、信州の高原療養所を舞台にしたサナトリウム文学を書いたことで有名で、その代表作のひとつが『風立ちぬ』だ。宮崎駿のマンガと同じ題名ではないかとお気づきかと思うが、共通点はタイトルだけに留まらない。堀辰雄の『風立ちぬ』は婚約者の矢野綾子と共に富士見高原療養所(結核専門の療養所)に入所し婚約者を先に亡くした作家の実体験をもとにしており、小説のヒロイン「節子」(モデルは綾子)は療養生活の後に肺結核のため死ぬのであるが、宮崎駿『風立ちぬ』の少女・菜穂子もまた堀辰雄のヒロインと同じ運命を辿る。“菜穂子”という名前からして、堀辰雄の他の小説(『物語の女』『菜穂子』)からの引用であり、「昭和8年堀越二郎・軽井沢の夏」もまた、昭和8年に堀辰雄が綾子と出会った軽井沢の夏をもとにした小説『美しい村』の影響を受けている。宮崎駿の妄想力によって生み出された『風立ちぬ』は、堀越二郎の人生だけで飽き足らず堀辰雄の人生まで飲み込んでいる。そんな物語がノンフィクションであるはずがない。宮崎吾朗が三鷹の講演会でジブリの制作姿勢について「別の時代をフィクションで描く」と語っていたが、これは『コクリコ坂から』だけでなく『風立ちぬ』についてもあてはまることだ。「ジブリ汗まみれ」とある回での、「つくりもの(フィクション)とそうじゃないもの(ノンフィクション)があるとしたら、今は現代はね、やっぱりフィクションが力を失っている時代だよねっていう気がしてるんですよ。やっぱり僕はねどっかでね、フィクションを信じたいですよ」との鈴木敏夫の発言は、映画『風立ちぬ』完成に向けて孤独な作業を続けていかなければならない作家に付き添うプロデューサーの言葉として受け止めるべきだろう。

 東日本大震災が発生した、2011年3月11日、宮崎駿は関東大震災のAパートのラフコンテを切り終わったところだったという(『CUT』2011年9月号)。映画序盤にマンガ版『風立ちぬ』ではなかった関東大震災のエピソードが追加されるのは、宮崎駿の父親が本所被服廠跡で起こった関東大震災の惨劇の体験者であることと無縁ではないだろうし、間違いなく関係があるのだが(映画『風立ちぬ』は宮崎駿の父親の人生も飲み込んでいる)、ここではあえてそれ以外の要因を挙げてみたい。東日本大震災後に出版された池田清彦と養老孟司の共著『ほんとうの復興』で、養老孟司がこんなことを言っていた。「あまり言われていないことですが、僕は、日本が曲がっていったのは関東大震災の後からではないかと考えているんです。大正デモクラシーがなぜ、軍国主義に変わってしまったのか。そこには震災の影響が非常に大きかったのではないか」「あの震災(関東大震災)は何だったのかという歴史的検証はあまりない。それは、震災の歴史的研究というものがヨーロッパにはないから、学者の研究対象になかなかならないんでしょう。僕は、関東大震災がデモクラシーに与えた心理的影響は大きかったのではないかと思う」(『ほんとうの復興』)。養老孟司の言説を援用するなら、戦争へと突き進んでいく日本の端緒を関東大震災による帝都東京の荒廃として象徴的に宮崎駿の『風立ちぬ』は描き出すのではないか。鈴木敏夫は、宮崎駿の新作を「要するに戦争の話」(『CUT』2011年9月号)だとしているが、堀越二郎は戦闘機の設計者であるからあくまで技術者の視点からの話となるはずだ。戦争への道のりが関東大震災から始まったとしたら、その終わりはどこにあるのだろうか。「太平洋戦争の戦局が日増しに悪化していた昭和十九年(一九四四)十二月七日、東海地方を大地震が襲った。最大の急務として航空機の増産体制をとっていた三菱重工名古屋製作所大江工場(名古屋市)は、震源地に近かったため、事実上機能を停止した」「当時、総務課長で、昭和四十四年(一九六九)に三菱重工の社長に就任することになる牧田与一郎は、(中略)「戦争はもうあの地震で負けたと痛感した」という」「大江工場の床は三十センチ以上も波打っていたし、機械も冶具も精度が狂って使い物にならなくなっていた」(前間孝則『技術者たちの敗戦』)。1944年12月7日に発生した昭和東南海地震と相前後して、工場はB29の爆撃を受け、烈風の試作設計・零戦の改造設計・雷電の設計変更に奮闘していた堀越二郎はついに過労のため倒れた。関東大震災と東南海地震のどちらも宮崎駿のマンガ版『風立ちぬ』では扱われていなかったが、堀越二郎にとっての戦争(日中戦争、太平洋戦争)は「地震に始まり、地震で終わった」という裏テーマを持った映画をつくろうと宮崎駿はしているのではないかと私は睨んでいる。まだ関東大震災に加えて昭和東南海地震まで描かれるかはわからない、がしかし、大地震という天災と戦争を絡めて描くというのは、“繰り返し地震や火山、台風と津波に襲われてきた島”であり、これからも襲われ続けるであろう日本そのものを描くことに他ならないといえるのではないだろうか。



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  1. 2012/12/12(水) 21:05:32|
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■魔術師の種明かし 三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー提供作品 シルヴァン・ショメ監督『イリュージョニスト』



   この作品はアメリカのアニメーションのように、
   観る人を先導してくれるものではない。
   遊園地のジェットコースターではないんだ!
   これは“個人旅行”なんです。

    『熱風』2011年2号 特集「イリュージョニスト」
    シルヴァン・ショメ監督 インタビューより

 ジブリ美術館のことをスタジオジブリのテーマパークのようなものだと認識している人がいるかもしれません。もちろん、そのような面が全くないとは否定できませんが、そもそも“ジブリ美術館”というのは通称であって、その正式名称を“三鷹市立アニメーション美術館”といいます。だから、ジブリ作品の世界を体験できる場であると同時に(というより、それを通して)アニメーションのルーツや制作工程を知ることができる美術館なのです。それに、企画展示として「ユーリー・ノルシュテイン展」、「ピクサー展」、「アードマン展」をおこなうことで、日本アニメとは違う手法や表現の、優れたアニメーションを紹介してきました。
 さらに、ジブリ美術館は“三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー”という名目で、世界の秀作アニメーションを日本で劇場公開(配給)、そしてビデオリリースをする新事業を2007年から始めています。その第一回提供作品に選ばれた『春のめざめ』は、『老人と海』でアカデミー賞を受賞した監督アレクサンドル・ペトロフの新作アニメーションでありましたが、監督の本国ロシアではその芸術性の高さゆえに劇場公開されていなくて、劇場公開そのものが日本で初でした。このようなメジャーな映画会社から配給されない良質なアニメーションを紹介したり、他国では大ヒットしているが日本がアニメ大国であるがゆえに知名度が低く配給されにくい作品、例えばミッシェル・オスロ監督の『アズールとアスマール』、を選んで劇場公開しています。『春のめざめ』はガラス板に直接油絵の具で描く印象派風の画面、『アズールとアスマール』は装飾的で平面的そして絵本のような色あざやかな画面で、両作品とも、日本のアニメ映画ではなかなかみられない独特のアニメ表現をしていて驚かされます。その他に、若き日の宮崎駿は言うに事欠かず、若者であった高畑勲にアニメ表現の大きさの可能性を示した『王と鳥』(正確にはその未完成版『やぶにらみの暴君』)、そしてアニメーションに込められた貫かれた想いと志の高さに宮崎駿が感動した『雪の女王』、といったような高畑・宮崎両氏が影響を受けた過去の知られざる名作アニメーションのリバイバル上映と再ソフト化もこのライブラリーではおこなっています。
 個々の作品のファンのなかには、“三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー”と冠が付くことを嫌う方もいるでしょうが、大規模ではないにせよジブリ美術館が配給することで、その作品に対する間口が広がってより多くの観客にみてもらえる可能性を考えれば、そう悪いことはないと私は思います(映画の公開と連動して、美術館でその映画についての展示がされることもあります)。



 2011年3月26日から日本で公開されるシルヴァン・ショメ監督の最新作『イリュージョニスト』を先行上映する、「三鷹の森アニメフェスタ2011」第二部の特別上映会に行ってきました。
 前作の『ベルヴィル・ランデブー』は、台詞が非常に少なく、極端な身体のデフォルメーションにも驚嘆しますが、それ以上にストーリー展開の奇天烈さは類をみない作品でした。それはたとえば自転車レースの特訓を過酷にこなしているかと思えば、肝心のレースはうまくいかない。おばあちゃんが孫の行方を追って“ベルヴィル”という巨大都市に着いたと思えば、なぜか三つ子の老婆姉妹の音楽バンドに参加したりと、観ている人の予想を裏切り続けるといったようにです。しかし、音楽や背景美術のデザインもとても洒落ていてイイし、次はどうなるんだと気になるので、最後まで意外な展開で観る人の心を掴んで離さない傑作アニメーションとして知られています。
 今回観に行った新作『イリュージョニスト』でも台詞の数が少なく、音楽や背景美術は洗練されていて前作の雰囲気を感じさせる部分もありますが、前作のような奇抜さは鳴りを潜めていて、シンプルなストーリーでしみじみとさせる味のある映画でした。
 『イリュージョニスト』の脚本は、フランスの喜劇王といわれたジャック・タチが娘に遺したシナリオをもとにしています。私はこの映画を知るまでジャック・タチのことは知らなかったのですけど、『熱風』にあった映画評論家・坂尻昌平の記事によると、「タチ映画の影響は大きく、ヌーヴェル・ヴァーグのゴダール、トリュフォーを始めとして、デヴィッド・リンチやティム・バートン、タルコフスキーやイオセリアーニ、ミスター・ビーン、そしてシルヴァン・ショメに至るまで、枚挙に暇がない」というように、映画業界人に与えた影響は少なくないようです。TSUTAYAのレンタルで借りたジャック・タチの代表作『ぼくの伯父さん』のDVDパッケージには“フランスのチャップリン”と書いてありましたが、ジャック・タチもチャップリンのように本人が主演して監督もやる人でした。だから、『イリュージョニスト』も元々は本人が演じるものとして構想されたので、主要キャラクターのタチシェフはジャック・タチにそっくりです(名前も)。台詞の少なさと基本パントマイムで演じるタチ映画のスタイルは『ベルヴィル・ランデブー』を観ても明らかで、シルヴァン・ショメにも受け継がれています。そのショメのタチへの敬愛は、『イリュージョニスト』のタチシェフの仕草や動きにしてもそうですが、人物の頭からつま先まで全体を画面でみせる構成がタチ映画そのもので、よくわかります。
 『イリュージョニスト』のストーリーは、1950年代フランス・パリの場末のステージで昔ながらのマジックを披露する初老の手品師タチシェフが、ある日スコットランドの離島に流れ着き、そこの片田舎のバーで貧しい少女アリスと出会うことから始まります。彼女がバーの掃除で使っていた石鹸を新品の石鹸にタチシェフが取り替えたことで彼のことを魔法使いだと信じ、彼女は島を離れるタチシェフを追います。言葉が通じないながらもエジンバラの片隅で一緒に暮らし、タチシェフは彼女にプレゼントを続け、アリスはどんどん美しくなっていきます。そんなある日、アリスは格好いい青年と出会って…といったお話です。場末の落ちぶれた芸人、老人の助けで輝きをます少女、そして後で現れる若い男、この筋書きはチャップリンの晩年作『ライムライト』を彷彿とさせますが、ショメ監督によるタチ映画は劇的な展開をみせませんし、あくまでパントマイムにこだわる姿勢は、動きで語りながらもセリフを必要としたチャップリンとは対照的です。アリスとタチシェフが言葉でコミュニケーションがとれないのも(アリスの言葉はケルト語の一種であるゲール語)、そうした姿勢の反映だと思います。
 ショメ監督が公式サイトの「プロダクション・ノート」で、「もし『ベルヴィル・ランデブー』が複雑な話をシンプルに語っているとしたら、『イリュージョニスト』はその真逆だった。すごくシンプルに見えて、極めて複雑なんだ」と言っていますが、この複雑さをアニメーション映画監督の細田守が『熱風』の記事で、“手品”を“アニメーション”でやることの二重性として指摘していました。つまりアニメーションは作画をすれば、どんなマジックだって起こせるわけで、手品の驚きが全く伝わらないと。でも、それをあえてやることがその二重性だというわけです。この手品をアニメーションでみせるのは、細田氏の指摘の通り、諸刃の剣だと私も思います。下手をすれば、映画の世界が瓦解しかねません。それに、手品のみせ方にしても引きの画面で、説明的なカット割をしていないので、タチシェフの手品のなかには仕込みがわからないものがありました。だから、それは想像するしかないのですが、そもそもその手品に“仕込み”が本当に存在するのか、と疑問を持たれてしまう恐れがあります。ショメ監督はこの問題を気づかずに、放置していたのでしょうか。私は思うのですが、しかしだからといって、手品をする前に観客にその仕込みを全部アップでみせて説明したりしたらどうなるのかと。そうしたら、タチシェフの手品の裏側を知った観客で、その手品を魔法と信じるアリスのことを馬鹿にする人が多くでてくる可能性があります。ショメ監督はそうなるよりも、アリスとともにタチシェフの手品を(タネがあると知りながらも)驚き楽しみ、アリスが魔法と信じてしまう気持ちを理解して欲しかったのだと思います。手品のなかに仕込みが示されないものがあるからこそ、最後のタチシェフの“種明かし”が印象深くなるのだし、どこかさっぱりした気分にもさせてくれるのです。
 ここまで長々と思うところを書いてきましたが、この映画はハリウッド映画のようにエンターテイメント主体の映画ではありません。でも、人生の哀しみや楽しみ、あり方のひとつをアニメーションで描いた美しい作品だと思います。手品師についていくアリスの姿は、映画を観にくる私たちの姿であり、タチシェフたちがそれぞれの人生を歩んでいくように、私たちは映画が終わるとそれぞれの人生へと戻っていくのです。




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■現代に生きる作家 未来を担う美術家たちDOMANI・明日展2010<文化庁芸術家在外研修の成果>


 <開催期間>
 2010年12月11日-2011年1月23日

 <展覧会について>
  文化庁は、将来の我が国芸術界を支える芸術家を支援する
 ため、若手芸術家を海外に派遣し、その専門とする分野について
 研修の機会を提供する、「在外研修(新進芸術家海外研修
 制度)」を昭和42年度から実施しています。
  「DOMANI・明日展」は、この制度の成果発表の場として
 これまで12回開催してまいりました。様々なジャンルから
 選出された、現在活躍中の12名の作家が各々の世界を
 展開します。美術界の明日を担う作家たちの多彩な表現が
 一堂に会する、貴重な機会をぜひお楽しみください。

 [出品作家](派遣年度順・五十音順)
  古郷秀一(彫刻)、三好耕三(写真)、遠山香苗(絵画)、
  近藤弘(陶造形)流麻ニ果(絵画)、深井聡一郎(彫刻)、
  鈴木涼子(現代美術)、赤崎みま(写真)神戸智行(日本画)、
  近藤聡乃(現代美術)、町田久美(絵画)、
  山口紀子(ファイバーアート)

 しばらく前に既に終了した展示ではあるが、印象深かったので今更ながらブログに書くことにする。この展覧会は六本木の新美術館で開催され、その詳細は上の<展覧会について>などをみてもらえばわかると思うが、国からの支援で研修として海外に行ってきた(もしくは今も行っている)美術家たちの作品の展覧会である。「在外研修(新進芸術家海外研修制度)」という制度があることをこの展覧会で私は初めて知ったけど、日本を出て海外で学ぶという点では古くは遣隋使からあるもので、夏目漱石も国からの指令で英国に留学して、その経験が漱石の小説に大きな影響を与えていることは有名だ。もしかしたら、この制度を利用した美術家の中から世界的に有名になるような芸術家がでてくる可能性もあるかもしれない。


ショップで買ったポストカード。<右上>鈴木涼子「ANIKORA-kawaii no.6」<左上>町田久美「手紙」<下>近藤聡乃「waiting-sketch」(部分)

 ここからは展示で気になった作家について語りたい。

 まずは、アニメのフィギュア風の姿態にリアルな顔をしたアンビバレントな作品で目を引く鈴木涼子について。その作品は、村上隆の等身大フィギュアを想起させるが(※鈴木涼子のは平面作品)、リアルな顔は作家自身のもので自画像の変形の一種ともいえる。実質、顔のすげ変えで人にインパクトを与える仕掛けをつくっていて初めて作品に対峙したときに意表は突かれはするものの、視線を顔から逸らせば、顔以外のフェティッシュを持つ人間にとってはよくできている。それに、顔と身体との違和感は(あるにはせよ)表立って目立たせないような努力がされているため、不快感はさほど感じさせない。彼女の「ANIKORA-kawaiiシリーズ」は可愛さを求める日本的な風潮を風刺する意図があるようだけど、彼女の技量がかえって、その意図を弱めているような気もする。それとは逆に、彼女の別シリーズの内臓系の肉で顔を覆った写真や中年のだらしないヌードを撮った写真などは見る者を忌避させてしまう傾向が強いように感じられ、私は鈴木涼子の作品に作り手と受け手との深い溝をみた思いがした。

 町田久美の名前は以前耳にして知っていたが、実際に作品を観たのは初めてだった。シンプルな太い描線に、控えめな彩色。言われなければ、彼女の絵が日本画の技法で描かれているとは気づかなかったかもしれない。彼女の作品の前に立つと、その絵の迫力に息を呑む。絵に描かれているのは子どものようであるが、かといって可愛げがあるわけではなく、どこか不敵な表情を浮かべていて、現実離れしている。その量感が伝わってくる姿は、キャラクター的というより人体的だ。捨象された画面だからこそ、その作家の力量が浮き彫りになる。
 図録で文化庁の野口玲一氏が語っているように、多様なメディアを用いて表現をおこない、表現媒体でのジャンルの分類から逸脱する作家が現れてきている(今展覧会では「現代美術」という分類がそのような作家にあてられている)。日本画の技法を用いながら、従来とは違う表現をおこなっている町田久美もまた、表現という意味ではジャンルの枠組みから逸脱している作家だろう。

 近藤聡乃は、マンガ、アニメーション、絵画と様々なメディアを使い分けて、表現をおこなっている作家だ。2010年にニューヨークのグッゲンハイム美術館が主催した「YouTube Play:A Biennial of Creative Video」で、彼女が制作したアニメーション『てんとう虫のおとむらい』のダイジェスト動画が上位25作品のひとつに選ばれるといったように近年注目されており、今展覧会で参加している作家の中で一番若いにもかかわらず、知名度の高い作家である(アニメーションという表現媒体の間口の広さも知名度の高さの理由のひとつであるのは間違いない)。展示内容は、完全版『てんとう虫のおとむらい』のアニメーションや絵画など過去作品もあったが、現在制作中の新作アニメーション『KiyaKiya』のための大量のスケッチが公開されていて、近藤聡乃ファンとしては期待が高まった。作家が自作について語るギャラリートークがあって、近藤聡乃の回に参加したので見聞きしたことを書くと、過去作品について『電車かもしれない』は900枚、『てんとう虫のおとむらい』は3000枚の動画が使用されているそうで、一枚一枚描く手間を考えると個人でアニメーション制作することの苦労が偲ばれる。新作アニメについて、『KiyaKiya』というタイトルは「胸がキヤキヤする」というデジャブーを意味する昔の日本の言葉に由来。そして、新作は「紙芝居」がキーポイントとなるそうだ。近藤聡乃のギャラリートークの中で、最も興味深かった話は、描く女の子のキャラクターは自身が太ったり痩せたりすると、キャラクターもそれにつられて太ったり痩せたりするという事。是非、近藤聡乃のキャラクター「英子」が白髪になるまで画業を続けてほしい。
 最近発売した青林工藝舎出版の「アックスvol.79」では、雑誌の巻頭に彼女のインタビューが掲載されていて、制作中の『KiyaKiya』についてはもちろんのこと、海外での生活についても語られているので、近藤聡乃ファンには購入をオススメする(表紙も近藤聡乃)。このインタビューの情報によると、新作アニメーションでは音楽は、サックス奏者のジョン・ゾーンが担当するとのことだ。

 ここまで記事を読んでもらえば、私が近藤聡乃目的で展示を観に行ったことがわかってしまったかもしれないが、それは事実として最後にDOMANI・明日展2010の総評を述べると、きっかけは近藤聡乃だったとしても、この展示のおかげで知らなかった同時代の現代に生きる美術家たちの作品に出会えることができ、その良い機会となったと思う(この記事で書かなかった作家の作品の中にも優れたものは、多く見受けられた)。



 関連当blog記事
越境する作家 近藤聡乃『電車かもしれない』&『てんとう虫のおとむらい』

テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術

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  1. 2011/03/04(金) 05:30:45|
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■日本映画の可能性 トラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』



 村上春樹原作の映画『ノルウェイの森』を観てきた。私は村上春樹の小説は大体読んでいて、その中で『ノルウェイの森』は特に好きな部類の小説ではないのだけど、もちろん既読済みではある。1065万部と日本で一番売れている小説(映画パンフレットより)で、その内容の性描写の多さなどから、毀誉褒貶の激しい作品ではあるが、ベトナム系フランス人のトラン・アン・ユンが監督をするということで、外国人の監督がこの原作をどう料理するのかしばらく前から楽しみにしていた。
 原作既読者としての感想をここで述べるとすると、原作を読んだ人間(あくまで私という人間の主観ではあるが)にとって、トラン監督による『ノルウェイの森』の映画化は非常に幸せなものだったと思う。この映画の空気感や美しさはトラン監督にしか出せないと思わせるものであったし、室外での撮影と室内の装飾や小道具、服装など画面作りにかけるこだわりや徹底さが感じられ、とてもよかった。キャストは日本人で、舞台は日本であるから、れっきとした日本映画のひとつであるのは確かではあるが、監督をはじめメインスタッフに外国人がいることが、この映画を日本人監督による日本映画とは一線を画する出来にしている。しかも、脚本には原作者である村上春樹のチェックが入っていたり、音楽には世界的音楽バンドであるレディオヘッドのギタリストであるジョニー・グリーンウッドが務めていて、使用許可がなかなか下りないビートルズの曲(映画タイトルと同名の「ノルウェーの森」)もしっかり流れることを考えると、村上春樹ファンからしたらこれ以上望むべくもない環境で出来た映画だったのではないだろうか。キャストの好き嫌いは個人各々あるには違いないが、それを含めても私としては満足のいく映画だった。
 ただこの映画に関して注意しておくべき点がいくつかある。それは、原作に忠実であるが故に、内容そのものに対して肌が合わない人がいるのではないかという点がひとつ。ふたつ目は、この映画がシンプルな娯楽映画ではないということである。だから、日本で最近量産されているTVドラマの延長でつくられているような映画を観に行く気分でいくと、痛い目をみてしまう人が多いような気が私にはする。最後に注意しておくべき点は、トラン監督による演出でじっくりカメラを回してみせていく場面が多く、観客の緊張をいくぶん強いるようなことも多々あり、このような種類の映画に慣れていない人にとっては気楽に映画を観ていられないかもしれない。しかし、このような難点があるとしても、原作が持つ鋭さをマイルドにして、娯楽色を強めるために原作を改変されたりするよりは、よっぽどマシだったと思う。私は今のかたちで映画をまとめてくれた監督に感謝したい。ありがとう、トラン・アン・ユン監督。


 レコード盤を模した凝ったつくりのパンフレット。

 


 関連当blog記事
母親殺しの物語 村上春樹『スプートニクの恋人』

テーマ:ノルウェイの森 - ジャンル:映画

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  1. 2010/12/13(月) 01:21:02|
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